大隅国五座のひとつである韓国宇豆峯神社は、延長5年(927)にまとめられた『延喜式神明帳』で「大隅國囎唹郡韓國宇豆峯神社」と記された式内社です。
『延喜式神名帳』延長5年(927)編纂
西海道神一百七座[大卅八座・小六十九座]。 …(略)…。大隅國五座[大一座・小四座]。桑原郡一座[大]。鹿兒島神社[大]。囎唹郡三座[並小]。大穴持神社、宮浦神社、韓國宇豆峯神社。馭謨郡一座[小]。益救神社。
創建年代は不詳ですが、養老4~5年(720-721)の「隼人の乱」から遡ること6年前の和銅7年(714)。朝廷に敵対する隼人を教導するため、豊前国から移民が行われました。その移民となった人々が崇敬して祀ったのが韓国宇豆峯神社と考えられています。当時、豊前国の中心をなしていたのは宇佐神宮(宇佐宮)であることから、その配下を当地へ使わせたと考えられています。
『続日本紀』
和銅七年三月壬寅(714年3月15日)。隼人昏荒。野心、未習憲法。因移豊前国民二百戸。令相勧導也。
社伝によれば宇豆峯とは山林の美称とされ、古くは宇豆峯(矢岳)の山頂に鎮座していました。しかし、祭祀・参謁に不便であったため、国司の進言により現在地に遷座したと伝えられています。明治21年(1888)に写本として残された『国分諸古記』に永正元年12月(1505年1~2月)、元和元年(1615)、宝永7年(1710)再興の棟札・銘文が記されていることから永正元年以前に現在地に移ったと考えられています。
また現鎮座地の元々の字は内門で、内門は宇豆門の転訛と伝えられています。明治12年(1879)地租改正の際に字内門から字前田になりました。隣りの字の「美ノ前」は、峯の前・宇豆峯の前との意であったと考えられ、上古、宇豆峯の区域は広大であったと推察されています。
韓国大明神、韓国様と称されて崇敬を受けますが、御祭神については諸説あり、現在は須佐之男命の御子神である五十猛命と事代主命とされています。
白尾斉蔵が寛政4年(1792)に記した『神代山陵考』では、御祭神を五十猛命、韓神、曾富理神の三坐とし、その中の二坐は甲冑を帯びた軍装であることから、韓国(大隅国のことか?)防禦のために築かれた城跡」との指摘もあることを記しています。社伝、文化5年(1808)編纂の『三国神社伝記』では御祭神を天児屋根命としています。
和銅7年(714)豊前国から当地へ移民が行われた際、重要な位置を占めたのが宇佐神宮でした。当時の宇佐神宮の祠官・神職は、大神氏、宇佐氏、辛島(韓嶋)氏が有力氏族でした。中でも辛島(韓嶋)氏は、素戔鳴命・五十猛命を祖神と奉っていました。一般に渡来系の氏族と考えられていますが、宇佐氏から分岐した氏族であるとの見方もあります。
尚、宇佐神宮の始まりについては、正和2年(1313)に編纂された『八幡宇佐宮御託宣集』に記された「鍛冶翁伝説」に重きが置かれていますが、承和11年(844)に編纂された『宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起』にて豊前国宇佐郡の御許山(馬城嶺)に始めて顕現したとの説も有ります。『宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起』には、大神清麻呂解状と辛嶋勝家主解状があり、共に、欽明天皇の御世、大御神は宇佐郡辛国宇豆高嶋に天降った後、御許山(馬城嶺)に始めて顕現したと記しています。その後、辛嶋勝家主解状では、大御神は現在の乙咩神社に移り、その時に辛嶋氏の始祖である辛嶋勝乙目が大御神として祀ったと伝えています。
その宇佐神宮の元宮とされる御許山(馬城嶺)山頂に鎮座する大元神社は、比売大神(多岐津姫命・市杵嶋姫命・多紀理姫命)を御祭神とし、頂上側は禁足地となっています。その山頂側に対する形で、須佐之男命を御祭神として祀る八坂神社が鎮座しています。
豊後国からの移民、辛嶋氏が祖神とする五十猛命を御祭神とすること。それらの背景から宇佐神宮との関りは深く、宇佐神宮の由緒を編纂した『八幡宇佐宮御託宣集』においても「辛国」の名が記されています。八幡大神は、辛国の城に八流の幡と天降り、日本の神に成ったと伝えています。また『八幡宇佐宮御託宣集』において記せられる「辛国」は大隅国を念頭にしているとされ「辛国の城」は霧島山(韓国岳など)とされています。
『八幡宇佐宮御託宣集』護卷三 日本国御遊化部
・一。初辛國宇豆高嶋。天國排開廣庭天皇御宇三十二年辛卯。豐前國宇佐郡菱形大尾山有靈異之間。大神比義祈申之時。現天童言。
・辛國乃城始天降八流之幡。我成日本神。一切衆生左右任心。釋迦菩薩化身。
人皇第一主神日本磐余彦尊。御年十四歳之時。昇帝尺宮。受執印鑰。還來日州辛國城。蘇於峯是也。蘇於峯者霧嶋山別號也。
・一。初は辛国宇豆高嶋。天国排開広庭天皇御宇三十二年辛卯、豊前国宇佐郡菱形の大尾山に霊異有るの間、大神比義祈り申す時、天童と現れ、言まはく。
・辛国城に始めて八流の幡と天降りて、我は日本の神と成れり。一切衆生、左も右も心に任せたり。釈迦菩薩の化身ありてへり。
人皇第一主、神日本磐余彦尊、御年十四歳之時、帝尺宮に昇り、印鑰を受け執り、日州辛国城に還り来たまふ。蘇於峰是也なり。蘇於峰は霧島山の別の号なり。
『八幡宇佐宮御託宣集』靈卷五 菱形池邊部
欽明天皇三十二年辛卯二月十日癸卯。捧幣傾首申。「若於爲神者、可顯我前」即現三歳少児於竹葉上宣。「辛國城始天降八流之幡。吾日本神成。一切衆生左右任心。釋迦菩薩之化身。一切衆生度念神道現也。我是日本人皇第十六代譽田天皇廣幡八幡麻呂也。我名曰護國靈験威力神通大自在王菩薩也。国々所々埀跡於神道』者。
欽明天皇三十二年辛卯二月十日癸卯。幣を捧げ、頸を傾けて申す。若し神為るに於いては、我が前に顕れるべしと。即ち三歳の少児と現れ、竹の葉の上に於て宣ふ。辛国の城に、始て八流の幡と天降って、吾は日本の神と成れり。一切衆生左にも右にも、心に任せたり。釈迦菩薩の化身なり。一切衆生を度むと念ふて神道と現るなり。我は是れ日本人皇第十六代誉田天皇広幡八幡麻呂なり。我名をば、護国霊験威力神通大自在王菩薩と曰ふ。国々所々に、跡を神道に垂るてへり。
この宇佐神宮との関わりは、養老4~5年(720-721)に起きた「隼人の乱」の背景ともなっており、宇佐宮から派遣された移民は、隼人の教導のため当地で活躍していたと考えられています。「隼人の乱」はその後、後世の八幡宮・八幡神社に受け継がれる放生会を拓くこととなり、後の神仏習合の象徴へと展開します。
一方、韓国宇豆峯神社の社伝では、御祭神は天児屋根命とされ、文化5年(1808)に編纂された『三国神社伝記』、及び明治4年(1871)の『薩隅日地理纂考』にても、社伝では天児屋根命が御祭神であると記しています。
後に春日大明神として崇敬される天児屋根命は、邇邇芸命の 天孫降臨の際、 随伴した神で 中臣連の 祖となったとされる大神です。しかし、 天孫降臨の地とされる霧島山(韓国岳)周辺において由緒を持ち、天児屋根命を御祭神として祀る神社は見当らないことから、韓国宇豆峯神社の重要性を指摘する知見も有ります。尚、宇佐神宮で神亀2年(725)最初に 造営された 一之御殿の 脇侍社は、 春日神社です。
また、昭和53年(1978)の『式内社調査報告:第二十四巻・西街道』では、和銅7年(714)の移民と共に、3世紀ごろの辛嶋氏の傘下における中臣氏の南下。そして日本武尊が熊襲を討った際の中臣氏・中臣神(天児屋根命)の働き。そのいずれかが韓国宇豆峯神社の創祀に関わるのか定かではないものの、御祭神の二重性から鑑みて、辛嶋氏の祖神「五十猛命」と中臣氏の祖神の「天児屋根命」の繋がりは密接なものがあったとしています。
上古は朝廷の崇敬も厚く、島津氏も藩費を以て式年の 造営を行い、島津義久・島津吉貴両公は特に尊崇し、元和元年(1615)、宝永7年(1710)の再興に努めました。明治6年(1873)5月に県社に列格。令和2年(2020)12月22日に南西400mに鎮座する諏訪神社を合祀しました。
現在の社殿は、明治40年(1907)に改築され、その後修繕を加えたものです。春日造の本殿は間口2間・奥行1間半。入母屋造の拝殿は間口3間・奥行2間。例祭は、旧暦9月9日。旧暦3月16日の祈年祭には、境内で農耕・種蒔・奉射の御田植神事が行われます。能面五面が伝わっています。
【境内社など】
「三前神社」
社殿向かって右手の神池に鎮座。荒人神社、若宮神社、天一神社の三社を合祀。縦4尺3寸、1尺6寸。
- 荒人神社:祭神不祥。由緒不詳。
- 若宮神社:玉依姫命、応神天皇、仁徳天皇、神功皇后を祀る。由緒不詳。
- 天一神社:祭神不祥。由緒不詳。
「大山祇神社」
社殿向かって右手の神池に鎮座。大山祇神祀っています。由緒不詳。縦4尺3寸、横1尺6寸。
「門守神社」
二之鳥居を過ぎた左右に鎮座。境内の守護する門番にあたる神様です。櫛石窓神と豊石窓神を祀っています。
「田之神神社」
祭神不祥。由緒不詳。石祠。