「八女」の地名の元である八女津媛神を祀る八女津媛神社は、神ノ窟の集落にある高さ2丈5尺(約7.6m)、幅10丈(約30m)、奥行き三丈(約9m)大きな洞窟の下に鎮座しています。御祭神の八女津媛神は、景行天皇筑紫巡幸の頃、八女の県一帯を治める女神であったとされ、養老3年(719)3月の創建です。天正10年(1582)に栗原式部少輔源朝臣親直により再興。古くは水源地として重要視され、中世には修験道の行場でもあったと伝えられています。現在は、飛、土井間、神ノ窟、竹ノ払4区の氏神となっています。
景行天皇(大足彦忍代別天皇)が八女県に巡行されたとき、「峰々は幾重にも重なって美しいことこの上ない。若しや、あの山に神か有らせられるのではないか」と尋ねます。その時、水沼の県主である猿大海は「女神がいらっしゃいます。名は八女津媛と曰い、常に山の中に居ます」と答え、それが八女の地名の由来となったと『日本書記』に記されています。
『日本書紀』巻第七
景行天皇十八年(88)…(略)…。七月…(略)…。丁酉、到八女縣。則越藤山、以南望粟岬。詔之曰、其山峯岫重疊、且美麗之甚。若神有其山乎。時水沼縣主猿大海奏言、有女神。名曰八女津媛。常居山中。故八女國之名、由此而起也。
景行天皇十八年(88)…(略)…。七月…(略)…。丁酉に、八女県に到る。則ち藤山を越えて、南粟岬を望りたまふ。詔して曰はく、「其の山の峰岫重畳りて、且美麗しきこと甚なり。若し神其の山に有しますか」とのたまふ。時に水沼県主猿大海、奏して言さく、「女神有します。名を八女津媛と曰す。常に山の中に居します」とまうす。故、八女国の名は、此に由りて起れり。
『日本書記』の11年後の天平3年(731)にまとめられた『住吉大社神代記』では、『日本書記』と同様の記述が進みますが、皇后が自ら祭主となり、八大夫・八美女を以て奉斎したことまで伝えています。
『住吉大社神代記』
一。八神男。八神女奉供本記
…(略)…。八女縣藤山水沼縣主猿大海。奏言。有女神、名曰八神女津媛。常居山中、奉齋於大神。由此皇后以八大夫。八美女奉齋。自神主仍相傳也。
一、八神男・八神女供へ奉る本記
…(略)…。八女縣の藤山に水沼縣主猿大海あり、奏して言さく、「女神あり、名を八神女津媛と曰ふ。常に山中に居り、大神に奉齋る。」此に由りて、皇后、八大夫・八美女を以て奉齋り、自ら神主りき。仍りて相傳ふるなり。
伝承では神ノ窟は、天照大神が素戔男尊の粗暴ないたずらに怒って引き籠った天岩屋であるとも伝えられ、日向神ダムの北壁の天戸岩が天手力男命が開け放った岩の扉であるとされています。また、豊玉姫命が出産に際し、八尋大鰐と化しているのを彦火々出見尊(山幸彦)に覗かれたのを恥じて、海へ帰った穴との伝説も残されています。
六所権現とも岩屋権現とも称され、本地垂述の神仏混淆の信仰の篤かった江戸中期までは、神ノ窟の集落の名も仏岩屋であったと考えられています。境内に残る高さ80cm、幅15cm程の燈篭には次のように記されています。
奉寄進石燈篭一本
元禄六歳(1693)癸酉五月吉上日
上妻郡矢部仏岩屋村
栗原権兵衛尉
善正寺の宝暦8年(1758)の過去帳にも仏岩屋とありますが、嘉永2年(1849)には、神岩屋と出てくるようになります。神社として祭りが盛大になってきた江戸末期に神岩屋になり、明治になって神ノ窟となったとされています。
明治6年(1873)3月14日郷社に列格。社殿は1間の1間、拝殿1間半の2間、御供屋1間2尺の1間4尺5寸で、境内の広さは47坪。昭和61年(1986)に老朽化が激しい社殿に上から岩石がくずれ落ちて倒壊したため、総工費800万円を投じて再建されました。
【神事・祭事】
八女津媛神社 の浮立
5年に1回、11月15日の例祭で奉納される浮立は、秋の恵みに感謝して行われ、依代を飾る大太鼓を打ち、小太鼓、鉦などを打ちながら舞う楽浮立です。県無形文化財。
その始まりは不詳ですが、浮立は、平安朝から鎌倉期に流行した歌舞で、踊りや服装からも神仏混淆の平安時代に、その歴史を遡ることもできるのではないかともされています。古くより春に豊年を祈る祈願である予祝(願立)の行事があり、秋になるとその願立が成就した御礼・感謝として浮立を奉納してきたと考えられています。
氏子の代表である神課によって管理される八女津媛神社 の浮立は、大太鼓を打つことを中心として多人数の囃子が加わります。
浮立の中心となる真法師は、僧の法衣を着て頭巾を被り、五色の布をつけた雨傘と「天下泰平、国家安全」と書かれた唐団扇を持ち、
「東西、東西、御鎮まり侯へ。御鎮まり侯へ。茲許に罷り出でましたる者は、江州比叡山の麓に住居をなす真法師にて侯。天下泰平、国土安穏の御代の時、弓は袋、太刀は箱に納めましたは、何とめでたい御代では。左様ございますれば、五穀豊穣、御願成就として、氏子中の子どもに笹をかたげさせ、面白からむ浮立をザァーとうたせます。ソウソウ、浮立を始めい、始めい。」
と口上を述べ、唐団扇を振りながら浮立を取り仕切ります。
赭熊を冠る大太鼓の上には座蒲団が置かれ、2本交差して立てた御弊が依代とされています。刀を背負った打ち方が交互に大太鼓を打ち、謡が入るところなどは、筑後地方によく見られる太鼓浮立の形を伝えています。大太鼓と共に、赭熊を冠り、胸前に小太鼓を吊るしている小太鼓打2人。法衣に頭巾をつけ白布に吊るした鉦を打つ鉦打ち2人。花飾りをつけた笠をつけ、鉦を持つ2人の連の計6人が、太鼓を打ち、鉦を叩き、舞い踊ります。そのほか行列の先導役を務める、猿面や小紋の裃を着て御幣をかつぐ御弊持の童子、紋付羽織の笛吹き10人くらいの人がつきます。さらに、氏子の老若男女が囃方として加わり、親鉦、太鼓後見人、面をつけた七福神、花編笠を冠った女性や子どもが周りを囲み、囃したてます。
真法師、鉦打ちの服装が僧形をしている点が他の県南に伝わる浮立と違い、修験道の山伏が関わっていたと考えられています。筑後地方によく見られる謡と共に、囃子方として村内すべての人が祭に参加するのは、他に見られないものです。
昭和39年(1964)5月7日に福岡県の無形文化財、昭和51年(1976)4月24日に福岡県の無形民俗文化財の指定を受けています。
【境内社など】
「媛しずく」
社殿向かって右手の神ノ窟の岩肌から滴る媛しずくは、八女津媛が顔を洗った石清水と伝えられています。美容や美白に良い「美人の水」と言われ、写真に撮ると願いが叶うとされています。
「夫婦岩」
社殿前に祀られている夫婦岩は、家内安全 ・家庭円満の御利益があるとされています。また、八女津媛神社 は子宝に恵まれる神社ともされ、男の子を願うときは向かって左、女の子を願うときは右の岩に祈願すると良いとされています。
「権現杉」
境内に聳える矢部村指定天然記念物の権現杉は、樹齢約600年。幹回り5.7m、樹高約45mです。
「阿弥陀堂」
参道入口の左、権現杉との間に祀られています。