【創建譚:浦姫様】
浦比咩大神を御祭神として祀る浦姫宮は、櫻井神社の創建に大きく寄与した浦姫が居住していた岩松城の屋敷址です。その命日の12月2日に例祭が奉斎されています。
慶長15年(1610)6月1日の朝から、櫻井の里を中心に大豪雨の中、終日雷鳴が轟きます。翌2日の早朝に至り、ようやく晴れ間が差して風雨・雷は静まりました。村人たちが、雷が落ちたと思われる三郎畑という小高い丘を見に来ると、人が入れるだけの大きさの穴が開いているのを見つけます。竹を挿し入れて探ると、さほど深くはないことが分かり、掘り進めると横に岩穴があり、南面した入口には大石が扉のようになっていました。これを開くと岩屋の口の上の壌土が墜ち、岩戸の中が顕れました。
畏れ怪しんで村人たちは遠巻きに見るばかりでしたが、松明をかかげた里の越後という剛の山伏に従い岩窟に入ります。すると三面の巌は、左右上下は平らかにして遮蔽するものなく、清浄にして荒磯の波風にさらせるが如く、自ずと自ら荒潔くなる心持ちとなる程のものでした。話を聞いた村人たちが、覗き込む中、1人の老女が忽ちの内に気色ばみ「神あり!神あり!」と叫び出したことから、人払いがなされ、敷地へ入るのが禁じられました。その後、噂を聞いた遠近からの参拝者が岩戸を拝もうと次々に訪れるようになりました。岩戸の開いた翌日からは、黄昏の後に岩屋の内より大きく光る物が出て、しばらくその上に徘徊した後、北西の海上に飛び去ることが続きました。
岩戸が開いて数日後、村人の中に岩松城屋敷址に居住していた浦刑部次永の子孫である浦新左衛門毎治の妻・乗蔵が神懸かりします。
後に神女の浦姫と呼ばれるようになる乗蔵は、幼き頃より正直にして慈愛深く、祭祀を奉ることを好みました。16歳の時には臥せっていた母親を3年にも渡り、甲斐甲斐しく看病する孝徳も積んでいました。母親は、その今際の時に感謝の言葉と共に、いつか人から拝されるようになるだろうと言い残して亡くなったと伝えられています。
乗蔵が神懸かりしたその日、乗蔵は陽も昇らぬうちに起き「前日の夜、神様からの御告あり岩戸を詣でん」と告げ、導かれるように磯辺に下り、塩水を汲んで岩戸に入ります。すると四方は白雪が満ちる銀世界となり、奥より飛んできた大きめの砂粒が眉間に当たり、我に返ると忽ちの内にボンヤリと左右の石壁に諸々の神々の姿が浮かび上がりました。そして参詣する人々に向って「貴方たちはなぜこの神々を見て奉らないのか!ここに神々が御座します!畏れ敬うことなく入ってはいけない!」と戒ると人々は驚いて退出しました。
その後、乗蔵は帰宅すると自らの汚れを恥じ、急いで汐ゆ(海の塩水)を取らせ、中に交じった砂を米を食べるが如く噛みしめると、口の脇から血が流れ出し、その口を汐ゆで漱ぎました。暫くすると、岩戸が開いた由縁を語り始め、諸々の神々の御託宣を聞き及んだ人々は、畏れ慄いたのでした。この時、乗蔵は42歳。乗蔵の神憑りの後、岩戸から出ていた大きく光る物は出なくなりました。
同年(1610)8月12日の月の明るい夜更け。乗蔵の枕頭に童男・童女が忽然として現れ、海宮を見ておいた方が良いであろうと宣り、乗蔵は荒磯に誘われました。童女は手鉾を左右の手に携えて先に立ち、童男は右手に紙垂の附いた榊、左手に紅の絹の附いた笹(篠)を持って海の中に入ると潮水が左右に分れ、乗蔵がその後を従い行くと程なく海宮に至りました。
壮麗荘厳な海宮には諸々の神々が数知れず並んで座り、乗蔵を迎える宴が行われました。しばらくして乗蔵が戻るときも童男・童女が導き「今回開いた岩戸はこの海宮との通路である」と告げます。そして、やがて国主より御社が建立され、乗蔵の子孫が神職を継ぐこととなると宣ります。続けて童男が「龍宮の都を見する有様を人に語るなつつしめよ」と歌い、童女が「つつしみて萬を祷れ叶ふべし龍の都の有らん限りは」と歌います。この2首を授け、童男が手に持った紅の絹を岩戸の懸け置くよう告げます。童男・童女が帰ると辺りは、白々と夜が明けてきていました。
家に帰った乗蔵は、急いで身を浄めて岩戸に詣でて岩戸の入口に紅の絹を懸けます。それを見た人々は奇異なることと訝しがるも、それ以降、乗蔵は海宮へ通うと言い残して、姿を見失うことが度々あり、彦火々出見尊(山幸彦)の御時より海と人との通路が絶えていた海宮へ、海神の教えにより、行き通ったと伝えられています。
乗蔵が初めて海宮に通ったとされるその翌13日の夜。乗蔵の家に金色の光が輝き渡り、乗蔵は口から幾度も血を吐きます。その後、清水を汲ませて大量に飲み干して吐くこと5~6度。突然に、「我は海の神なり。国家安穏ならしめんために爰に現す、我を信ずる輩は萬意の如くなるべし。血を吐かせしは、臓腑を清浄ならしめんためなり」と御神託が降り、先に天照大御神の御託宣、次に春日大神、その次に八幡大神の御託宣、そしてその次に日本国中の神祇の御託宣がありました。しばらくしての後、改めて海神の御託宣がありました。その御神託を聞いた人々は、畏れ敬うばかりでした。同年10月21日には、乗蔵に「今より後五ヶ年の間五穀を断ち、唯茶酒を呑み、家内に穢食を忌むべし。又此一邑の中生を殺す事を忌むべし」と御告げがあり、その後、乗蔵は茶と酒のみを飲みて、五穀を始め一切の食物を断ちます。その5年の後の正月13日に御告によりに食事は常に戻りました。
乗蔵は浦姫として祀られるようになり、岩戸神窟の側に一間ばかりの参談所を構えました。日々詣でる人たちの既往を語り、未然をはかり、吉凶・禍福を告示すること違えるありませんでした。その霊験は遠近に知れ渡るところとなり、福岡藩主の黒田忠之公の耳に届くところとなりました。
黒田忠之公はその真偽を確かめるため近臣を下男の体に仕立て遣わしました。その次第を全て事前に見通していた浦姫は、国主からの御遣いが来るのため饗応の準備をして待っていました。使者が門前に着いた頃に「今参られた年頃は何歳程で、某色の色の衣服を着た方は国主からの使者なので、こちらへ迎え入れてください」と言い、使者を招き入れました。
使者は、自分は下男に過ぎず、私事を尋ね参ったのに過ぎないと申すものの、浦姫は笑って「国主が仰ったのは斯々然々、今いらっしゃるあなたの御心は斯々然々でございましょう。なぜに嘘を仰るのですか?」と言うと、使者は陳謝するばかりで、尋ねるよう申し付けられていた質問を聞いて帰ります。
黒田忠之公は、その後に改めて、妄りに怪異を信じることのない権臣の村山氏を遣わして真偽を確かめさせます。櫻井に向かって、七寺川(長垂海浜公園付近)を渡っていた時、村山氏は知人に会い、公命にて櫻井に参ることを述べ、浦姫の御神託なぞ戯言だと言って足を進めます。前回と同様、事前に見通していた浦姫は、疑心のみで村山氏が訪れることを予見しながらも、国主からの遣いであるからとして対面しようと待っていました。
そして村山氏が訪れると、遠方からの労苦を労るも、本心を違えての遣いであり、七寺川を渡っていた時に起きたこと、その時の心根を事細かに言い当てたのでした。続けて、「神慮の妙なることは凡夫には計ることができないもので、その曇った心根に映るはずもない。その様な者に何を述べることがありましょうか」と言い残し、座を背にしたのでした。
村山氏が計り難き神慮を畏れて黙り込んでいると、浦姫は「誤りは誤りとして改めるのが良い。疑うことを辞めずに国主に報告するのは良くない。もし問われることがあれば申せ」と云います。村山氏は主君が仰ったことを始め、様々なことを質問しますが、ひとつとして違えることがなかったことから、ついに信心を起こしてその由縁を黒田忠之公へ報告したのでした。その後、黒田忠之公は自ら櫻井に参詣し、様々に質問すると全てに御神託があったことから大いに感じ入る所となりました。黒田忠之公は度々参詣するようになり、吉凶禍福を問うと必ず御神託があり、神威が示されることも数知れず起こったのでした。大いに稜威を感じ、尊崇の念を深めた黒田忠之公は、櫻井神社の御社殿と造営を発願します。
天照大神宮を建立するよう御神託があったことから、櫻井神社に先立って、寛永2年(1625)9月11日に櫻井神社の南西130mほどの光寿山の麓に櫻井大神宮を創建。続いて寛永6年(1629)に櫻井神社が着工。この造営に際し、御神託も数多くなされ、寛永6年(1629)11月3日の御託宣では、次の御神託がありました。そして寛永9年(1632)に櫻井神社は創建されました。
我地神の末より海と人との通路を止めて二千余年を経たり。今故あつて爰に現す。国栄え民安からしむへし。岩戸は海宮の通路なり。正直を心として謀計をたち、清浄にして我に事へば禍を除き安穏ならしめんとなり。
櫻井神社の岩屋の内には、高さ2寸5分(約7.5cm)、廻り8寸(約24cm)の大きさの紫色の玉が神宝として奉安されており、乗蔵(浦姫)が海宮を訪れた際、海神より託されたものと伝えられています。
また、浦姫は黒田忠之公が38歳になった時、天下に佳名を掲げるであろうと御告をし、果して38歳となった寛永18年(1641)黒田忠之公は肥前国長崎の藩鎮となりました。
浦姫は寛永13年(1636)12月2日に68歳で亡くなります。その亡くなる際にも様々な不可思議が起こったとされています。
【黒田騒動】
神窟が開いた慶長15年(1610)。その後、寛永2年(1625)に櫻井大神宮、寛永9年(1632)に櫻井神社が創建されます。黒田忠之公がその造営を発願するに至ったこの期間、福岡藩(黒田藩)はお家騒動で大きく揺れていました。
黒田騒動は、元和9年(1623年)黒田長政公の没後、黒田忠之公が2代藩主になってから始まります。藩主に着いたばかりの黒田忠之公は、自らの側近を重用し先代からの重臣らと対立します。そして櫻井神社が創建された寛永9年(1632年)の6月、一番家老で麻底良城の城主であった栗山大膳が江戸幕府に「藩主に反逆の企てあり」との訴状を差し出したのでした。
幕府から呼び出されることになった福岡藩は、急ぎ家老を江戸へ上らせます。藩の取り潰しも予想される中、最終的に3代将軍・徳川家光が直々に裁いた結果、黒田忠之公側の主張を認め、所領安堵の触れを出し、10年に及ぶ抗争に幕を閉じました。
この黒田騒動の中、黒田忠之公は浦姫のもとへお忍びで訪れ、江戸の成り行きを尋ねたと伝えられています。浦姫は庭にある榎の大木に登り、江戸の方を見つめ一心に思いを凝らします。しばらくすると、浦姫の心に江戸城の裁きの様子が映り、家老の明快な返答ぶりを教えました。黒田忠之公は、その信じられないような能力に驚かれ、後に浦姫の話が事実と少しも違わないことを知るとその信頼は益々深まり、難しい事が起こる度に相談されたとされています。尚、このとき浦姫が登ったとされる榎は、浦姫宮の榎とされています。後に枯れてしまうも古株から芽を出した若木があり、浦姫の生まれ変わりだと言い伝えられて今も残されています。
【浦姫の系譜】
浦姫が亡くなった後、その息子・善兵衛の子である宮内治重が祠官となり、黒田忠之公より吉田神社に派遣され神事を学びますが、夭折します。その弟の宮内毎成はまだ幼かったため、黒田忠之公の家臣の山部治右衛門を浦姫の娘の贅婿とし、神官となりますが、3年で亡くなります。黒田忠之公は、既に成長していた宮内毎成を次の祠官を命じ、当社神職の長としました。2代続けて早世したことから毎成の身を恐れるものが多い中、明敏な宮内毎成は寿夭は皆、天命なることと、少しも心にかけず祠官を務め、派遣された吉田神社で唯一神道を学び、三壇上を伝授されました。その後、浦権頭太輔と称して浦姓を名乗って帰国し、国中の社職の総司として諸社の神職の中でも志ある者は、浦氏の吉田流(吉田神道)に帰する所となりました。
浦毎成には妹が2人あり、上の妹を武藤氏に嫁がせて浦姫の住んだ家(浦姫宮)を継がせ、下の妹は神田氏に嫁いで男子を取り上げます。武藤氏は後に黒田忠之公に使える武士となったことから家(浦姫宮)を神田氏の子に譲るのと共に、武藤氏の娘を娶らせ、その子孫が継いでいます。浦姓の子孫、及び旧社家の子孫が年々祭事を務め、浦姫の曽孫の浦毎昭によって元禄2年(1689)に書かれた縁起が残されています。