延長5年(927)にまとめられた『延喜式神名帳』に十九式内社の一社でとして糸島で唯一記載せられた式内小社です。
『延喜式神名帳』延長5年(927)編纂
西海道神一百七座[大卅八座・小六十九座]。
筑前国十九座[大十六座・小三座]。宗像郡四座[並大]。宗像神社三座[並名神大]、織幡神社一座[名神大]。那珂郡四座[並大]。八幡大菩薩筥崎宮一座[名神大]、住吉神社三座[並名神大]。糟屋郡三座[並大]。志加海神で社三座[並名神大]。怡土郡一座[小]。志登神社。御笠郡二座[並大。筑紫神社[名神大]、竈門神社[名神大]。上座群一座[小]。麻氐良布神社。下座郡三座[並三座]。美奈宜神社三座[並名神大]。夜須郡一座[小]。於保奈牟智神社。
御祭神は海神である大綿津見神の娘、豊玉姫命です。龍宮で身籠った豊玉姫命が彦火々出見命(山幸彦)を慕って陸に上がったのが当地とされ、昔は浮島となっており、海上から参拝するようになっていました。対馬の和多都美神社より当地に降臨したとも伝えられ、水と海運、富と権力、縁を結び、子孫繁栄を保証する女神、福を招き、出世を約束する女神とされています。古は志摩郡・怡土郡の総社として、この地方に於ける最も有力な神社として中央にも認められ、郡民一体の崇敬を集めていました大社であったと伝えられています。
社地の近くには豊玉姫命が髪を梳った地とされる岩鏡や、鏡掛松、拝松、古宮、玉ノ井などの古跡が点在しており、南東5kmの高祖山で彦火々出見命を祀る高祖神社、彦火々出見命が龍宮に赴くのを導いた塩土翁を祀る志摩芥屋の塩土神社も何かしらの関わりがあると考えられています。
古くからこの周辺は、海洋交易の要衝で、入江が東西から割り込み伊都国の港を形成していたと考えられています。南東600mにはそのことを裏付ける志登支石墓群が残されています。国指定遺跡の志登支石墓群は、弥生前期(約2500~2200年前)に造られ、朝鮮半島との繋がりを示すものとされています。
天正9年(1581)11月に高祖山城の城主であった原田隆種により再建され、高祖神社の御祭神である息長帯姫命と武内宿禰命の御神体を分霊し、12町の神田が寄附されました。しかし豊臣秀吉の九州平定(1586-1587)の時、神領を悉く没収され神官社僧も皆農夫となり廃絶の危機に至ります。元禄3年(1690)3月、第3代藩主の黒田光之から神田1町6反の寄附と共に神殿を初め末社に至るまで造立され再興されました。明治5年(1872)11月3日郷社に列格、大正5年(1916)10月12日県社に昇格し、同年12月12日幣帛供進社に指定されました。平成27年(2015)12月に前年の火災焼失から再建されました。
社殿向かって右手に鎮座する社は、天照大神を祀る皇大神宮、須佐男命を祀る八坂神社、十域別神と倉稲魂神を祀る志々岐神社を合祀しています。その手前に太陽観測石と玉の井(井戸)が祀られています。玉の井は元治2年(1865)正月元旦に奉納されたものです。太陽観測石は伊都国時代の祈祷師が太陽を測るために用いた石とされています。西方に向かって建てられている志登神社は、冬至に夕日が沈む時、鳥居から社殿を結ぶ参道が一直線になり、天体観測の地であったと考えられることから祀られています。境内入り口右に鎮座する厳島弁財天は、福徳・諸芸能上達の神、水の神、蓄財の神として信仰される弁財天を祀っています。
社殿向かって左手の松本天満宮は、菅原道真を祀っています。志登字松本にあった天満宮を太平洋戦争中、食料を作るため遷座したもので、跡地は農地として活用されました。
第二鳥居と注連掛石の間に掛かる小さな石橋は、細語橋と呼ばれています。元は神社の入口(約1km)にあったもので、膝行の人が足が不自由で立てなかった人が、この橋の上に来ると立派に足が立ったとの伝説が残されています。元禄3年(1690)3月の社殿建立の際に、境内に移されました。立石大神とも大石大神とも称され、神池の畔の入口に万病平癒を願って祀られています。
また、志登神社には神宮寺として照光寺が建てられ、明治初期まで照光寺住職が宮司坊を務め、照光寺を本務社としていました。照光寺の開山祖師である権僧都阿闍梨法印𡒝永和尚は、初代志登神社の大宮司・岩隈式部種義の弟で、真言宗開の空海(弘法大師)と南岳山東長蜜寺で修行した友と伝えられています。大同元年(806)日本で最初の密教寺院として東長蜜寺を博多に開山した空海は、縁ある志登の照光寺を訪ねたと伝えられています。水害に見舞われることの多かった照光寺は、神社の書付・宝物を東長蜜寺に預けていたとされますが、東長蜜寺が元弘3年/正慶2年(1333)元弘の乱の兵火に焼かれたことで宝物を消失し、以前の歴史を語るものを亡失します。東長蜜寺は照光寺に逃れることとなり、3年後に再建されますが半分に満たない規模となり、後の戦乱の中で荒廃します。江戸期に入ると第2代福岡藩主・黒田忠之が真言宗に帰依し、東長蜜寺は現在地に再興されることとなり、菩提所とされました。その際、照光寺に疎開させていた仏像、什器を元に再建は行われました。その由緒から空海所縁の神社としても知られています。尚、現在の照光寺は、明治期に途絶えていたものを明治後期から大正にかけて銘を頂き、別途、再建されたものになります。