「本庄の大楠」を御神木とする大楠神社は、景行天皇の土蜘蛛退治の所縁の土地で、宇佐宮の遷宮の際、最初に斎行される御杣始祭の場となっていた神社です。
大楠神社が所蔵する元禄12年(1699)の『大楠小楠宮社記』によれば、景行天皇が、土蜘蛛(朝廷に従わなかった地方豪族)を平定しようと、筑紫に親征した景行天皇12年(82)豊前国京都郡の御所ヶ谷に宮殿を構えます。そして「ここから三里(約12km)四方の山河清らかな良地を選び、天神を祀って土蜘蛛を退けよ」と命じます。築城郡の城井本庄の郷に清らかな土地があったため、仮の鉾を立て、この地から天神に祈りを捧げ、土蜘蛛を平定しました。その後、後世に鉾の証拠とするため、この場所に楠の木を一本植えさせ、御神体として厳かにお祀りしました。これが大楠宮の始まりです。後に皇子(若宮)が誕生された際、御祈祷のために祝部の御食津臣に命じて、北へ二町(約220m)ほど離れた場所にもう一本の楠を植えました。この木は大楠神社と対をなすことから小楠と名付けられ、小楠宮と称えられました。後に暴風によって倒れたと言い伝えられていますが、今もその跡地が残っています。
神功皇后が三韓征伐に向かわれる際には、勅使として武内宿禰が遣わされ、大楠宮・小楠宮の両社に幣帛を捧げたと伝えられています。この時、小楠宮の木はまたも倒れていましたが、後に武内宿禰が自ら楠を植え直されました。その際、社の掃除役であった村人の大門仁右衛門という者と宮柱役を務めていた兵部という者の二人に銚子と瓦甕の杯を賜ったとされています。
神亀2年(725)2月27日、神託によって初めて宇佐宮が造営された際、小楠宮にて建築用の材木を切り出す御杣始祭が行われました。神護景雲年間(767-770)御杣始祭が行われるに際し、新たに日本武尊と応神天皇の二柱を合わせて祀りました。 その後、宇佐宮の造営のたび、必ず当社において御杣始祭を行うことが慣例となりました。
永禄年間(1558-1570)大友宗麟が当地で戦った際、兵火に罹り、大楠宮の社殿とともに小楠宮も焼失し、文書類はすべて失われました。この時より御神体を大楠宮に移して厳かに祀り、当時の領主の大内家は他より増して厚く崇敬しました。小笠原家が藩主として入国してからも、祭祀を怠ることなく、神職に祭服を下賜することが度々ありました。元禄12年(1699)4月、藩主の小笠原忠雄により、再び元の場所に社殿が再建され、現鎮座地に遷座されました。同時に、小楠宮に付属する神田として五反ほどの田地を賜りました。この神田は、大門仁右衛門の子孫が存命であったため、その末流に耕作と管理をさせ、代々無税としました。神田を耕す者は、毎年一度の祭礼を必ず執り行い、その際は、宮司と穂頭、肝煎の三名は必ず出席して神事を行うのが、小楠宮の決まりとされました。
往古は八ツ田村の管轄でしたが、由緒あって安永手長の管轄となりました。安永手長は十ヶ村(寒田、檪原、本庄、伝法寺、松丸、深野、袈裟丸、安武、赤幡、船迫)におよび、これら地域の産土神です。又、俗説として、大楠・小楠の葉を懐に入れて持てば、諸々の災厄を免れ、長寿を得られると語り伝えられています[01]。
寛政4年(1791)に印刻された木版画には「周り地付二十四丈(約72.8m)、中六丈八尺五寸(約20.8m)、木心部空洞、一方に口あり、石を以て塞ぐ」とあります。亭々として聳え、正に「日本三大樹」の名にふさわしいものであった事が偲ばれます。明治34年(1901)12月20日夜、洞内に仮寝した浮浪者の焚火の不始末から火を発し、木心部を伝わって燃え上った火が全樹を包み、主幹部を焼き尽くしました[02]。南の一枝が僅かに残り、殆んど枯死状態になっていましたが、次第に芽をふき今日では盛に繁っています。大正11年(1922)3月8日、第一類天然記念物として指定[03]。平成13年(2001)環境省の巨樹巨木林調査によると、全国第1位は鹿児島県蒲生町「蒲生の大クス」、2位は静岡県熱海市「來宮神社の大クス」、3位は青森県深浦町「北金ヶ沢のイチョウ」、4位が築上町「本庄のクス」と佐賀県武雄市「川古のクス」となっています。本庄の大楠は樹高は25.8m、胸高の幹周囲が20.6m。木芯部は大きな空洞となっています。現在5本の支柱に支えられ、支柱の食込みなど難題をかかえ、支柱の一部取り替え、土壌改良などの保護工事を現在も継続しています。5月にはアオバズクが営巣にやってきます[04]。