九州の神社

福岡県・岩屋神社(東峰村)

由緒

御祭神ごさいじん 天忍穂耳尊あめのおしほみみのみこと伊弉諾尊いざなぎのみこと伊弉冊尊いざなみのみこと

由緒

岩屋神社いわやじんじゃは、彦山四十九窟ひこさんしじゅうきゅうくつ第三窟だいさんくつ宝珠山岩屋社ほうしゅやまいわやしゃとして英彦山ひこさん修験道しゅげんどう、及び宝満山ほうまんさん修験道しゅげんどうの最重要な修行しゅぎょうの場とされた地です。宝珠ほうしゅとは、仏の教えの象徴で、何でも願いがかなう不思議なたまという意味です。

天保てんぽう4年(1833)に書かれた『宝珠山邑ほうしゅやまむら岩屋神社いわやじんじゃ来歴略記らいれきりゃくき(以下『来歴略記らいれきりゃくき』と略)』によれば、崇神天皇すじんてんのう2年(前96)岩屋いわやに初めて神が鎮座ちんざし、継体天皇けいたいてんのう26年(532)善正法師ぜんしょうほうし日子山ひこさんに続いて宝珠山ほうしゅやま宝泉寺ほうせんじ大宝院たいほういんとして開いたとされています。

建保けんぽう元年(1213)に記された『彦山流記ひこさんるき』によれば、彦山四十九窟ひこさんしじゅうきゅうくつ第三窟だいさんくつ宝珠山窟ほうしゅやまくつとして記録され、一辺が五間ごけん(約12m)で四方にひさしがつく大日堂だいにちどうがあり、丈六たけろく(約3m)の大日如来だいにちにょらいなどがまつられ、行者ぎょうじゃは必ず宝珠石ほうしゅせきいのるようにとされていました。

欽明天皇きんめいてんのう8年(547)神殿しんでん岩上いわうえ権現岩ごんげんいわ霊光れいこうがあり、社僧しゃそう霊光れいこうを怪しんで登ると2尺ばかりの石函せっかんから光明こうみょうが放たれ、山上さんじょうが照り輝いていました。社僧しゃそうは直ちに岩下いわした神殿しんでん安置あんちし、これが彦山権現ひこさんごんげん第一の神宝しんぽう宝珠石ほうしゅせき」とされ、宝珠山村ほうしゅやまむら(現・東峰村とうほうむら)の語源となりました。

宝珠石ほうしゅせきの出現から101年後の閏年うるうどし大化たいか4年(648)村民に「茅薦かやこもに包んで宝珠石ほうしゅせきまつれ」とお告げがあり、旧暦9月19日に13枚の茅薦かやこもで包んでまつることとなり、4年毎の閏年うるうどしに上の12枚を取り換える「薦替こもか神事しんじ」として伝えられています。

室町時代に胎蔵界たいぞうかいとしての彦山ひこさん金剛界こんごうかい宝満山ほうまんさん尾根筋おねすじ踏破とうはする入峰修行にゅうぶしゅぎょうが確立されると、玉置宿たまきしゅく玉来宿たまきしゅく)として修行しゅぎょうの重要拠点とされました。

文明年間ぶんめいねんかん(1469-1487)には岩屋六坊いわやろくぼうとも呼ばれ、多くの堂社どうやしろが建ち並び祭祀さいしも盛んでしたが、永禄天正年中えいろくてんしょうねんちゅう(1558-1592)大友宗麟おおともそうりん義統よしむねとの戦いでちを受け徹底的に破壊され荒廃します。江戸期に入り徐々に復興が進められ、寛永かんえい20年(1643)筑紫四郎右衛門興門つくししろううえもんおきかど岩屋権現社いわやごんげんしゃ本殿ほんでん再建さいけんします。

明暦年間めいれきねんかん(1655-58)から元禄げんろく9年(1696)にかけての彦山ひこさん宝満山ほうまんさん、及び本山派ほんざんは本寺ほんじ聖護院しょうごいんとの間に本末論争ほんまつろんそうが起こります。彦山ひこさん宝満山ほうまんさん、両陣営の先端となっていたのが宝珠山岩屋社ほうしゅやまいわやしゃでした。自国領内の修験道しゅげんどうの各山・寺を統制下に置きたいと考えていた福岡藩ふくおかはんとしては、何としてでも彦山末ひこさんまつから宝満山末ほうまんさんまつ鞍替くらがえさせる必要がありました。そして本末論争ほんまつろんそうの中で宝珠山岩屋社ほうしゅやまいわやしゃは、彦山ひこさん末山まつさんから宝満山ほうまんさん末山まつさんへと鞍替くらがえします。元禄げんろく11年(1698)福岡藩ふくおかはんによって本殿ほんでん再建さいけんされたのは、この本末論争ほんまつろんそうにおける動きへの褒賞ほうしょうと考えられています。

御祭神ごさいじんは、英彦山神宮ひこさんじんぐうと同じく天忍穂耳尊あめのおしほみみのみこと阿弥陀如来あみだにょらい]、伊弉諾尊いざなぎのみこと釈迦如来しゃかにょらい]、伊弉冊尊いざなみのみこと観世音菩薩かんぜおんぼさつ]の三柱みはしら英彦山ひこさん社記しゃきによれば、神武天皇じんむてんのう御東征ごとうせいの時、天村雲命あめのむらくものみこと勅使ちょくしとして英彦山ひこさんつかわして天忍穂耳尊あめのおしほみみのみことを祭らせたのが英彦山ひこさん創始そうしとされています。御祭神ごさいじん天忍穂耳尊あめのおしほみみのみことは、天照大神あまてらすおおかみ御子神みこがみであることから英彦山ひこさんは「やま」即ち「日子山ひこさん」と名付けられたとされています。 ※祭神さいじん本地仏ほんじぶつ

昭和63年(1988)12月19日に岩屋神社いわやじんじゃ本殿ほんでん境内社けいだいしゃ熊野神社くまのじんじゃ本殿ほんでん国指定重要文化財くにしていじゅうようぶんかざいの指定を受けます。

平成17年(2005)岩屋神社いわやじんじゃ本殿ほんでん解体修理工事では、本殿ほんでんのある権現岩ごんげんいわうま首根岩こうねいわとのくぼみにて、祭祀用さいしようではないものの弥生式土器やよいしきどき、そして8世紀後半(775-800)の僧侶そうりょ托鉢たくはつの時に使用する鉄鉢形土師器てつばちがたはじき出土しゅつど法蓮ほうれん造営ぞうえいした彦山四十九窟ひこさんしじゅうきゅうくつは、奈良時代の8世紀前半~9世紀前半と考えられていますが、鉄鉢形土師器てつばちがたはじきの年代からかんがみて、岩屋神社いわやじんじゃの歴史は、奈良時代、遅くとも平安初期には一般化していたと予想されています。

宝珠石ほうしゅせきは、権現岩ごんげんいわくぼみに建てられている岩屋神社いわやじんじゃ本殿ほんでんの中にあり、宝珠石ほうしゅせきそのものを見ると目がつぶれるとされています。本殿ほんでん内部には、茅薦かやこもに包まれた宝珠石ほうしゅせきと共に、本殿奥ほんでんおく上壁じょうへきに直径2m程の滑らかな表面をした火山弾かざんだんが埋め込まれるように一部を見せています。元の宝珠石ほうしゅせきはこの火山弾かざんだんであり、現在の茅薦かやこもに包まれた宝珠石ほうしゅせきは、元禄げんろく11年(1698)の再建さいけん時に勧請かんじょうされたとの説もとなえられています。

創始そうしから江戸時代の初めまで】

岩屋神社いわやじんじゃは、彦山四十九窟ひこさんしじゅうきゅうくつ第三窟だいさんくつ宝珠山ほうしゅやまとして英彦山ひこさん修験道しゅげんどう、及び宝満山ほうまんさん修験道しゅげんどうの最重要な修行しゅぎょうの場とされた地でした。

その創始そうしは古く、平成17年(2005)岩屋神社いわやじんじゃ本殿ほんでん解体修理工事にともなう発掘調査では、本殿ほんでんのある権現岩ごんげんいわうま首根岩こうねいわとのくぼみにて祭祀用さいしようではないものの弥生式土器やよいしきどき出土しゅつどしています。また、その調査では8世紀後半(775-800)のものとされる鉄鉢形土師器てつばちがたはじき出土しゅつど鉄鉢形土師器てつばちがたはじきは、僧侶そうりょ托鉢たくはつの時に使用する鉄鉢てつばちを土器で模したもので、外側が黒く水が漏れないように加工されています。法蓮ほうれん造営ぞうえいした彦山四十九窟ひこさんしじゅうきゅうくつは、奈良時代の8世紀前半~9世紀前半と考えられていますが、鉄鉢形土師器てつばちがたはじきの年代からかんがみて、岩屋神社いわやじんじゃの歴史は、奈良時代、遅くとも平安初期には一般化していたと予想されています。

天保てんぽう4年(1833)に書かれた『宝珠山邑ほうしゅやまむら岩屋神社いわやじんじゃ来歴略記らいれきりゃくき来歴略記らいれきりゃくき)』によれば、崇神天皇すじんてんのう2年(前96)岩屋いわやに初めて神が鎮座ちんざし、継体天皇けいたいてんのう26年(532)善正法師ぜんしょうほうし日子山ひこさんに続いて宝珠山ほうしゅやま宝泉寺ほうせんじ大宝院たいほういんとして開いたとされています。

建保けんぽう元年(1213)に記されたとされる『彦山流記ひこさんるき』、及び元亀げんき3年(1572)『鎮西彦山縁起ちんぜいひこさんえんぎ彦山縁起ひこさんえんぎ)』によれば、継体天皇けいたいてんのう25年(531)中国の北魏ほくぎの仏教僧であった善正法師ぜんしょうほうし渡海とかい日子山ひこさんへ入り修行しゅぎょうしていたところ、豊後国ぶんごのくに日田郡ひたのこおり狩人かりゅうどであった藤原恒雄ふじわらのつねお善正法師ぜんしょうほうしの弟子になって「忍辱にんにく」の名を与えられ、二人で日子山ひこさんに「霊山れいざん」を開いたのが日子山ひこさん彦山ひこさん英彦山ひこさん)の開基かいきとされています。『来歴略記らいれきりゃくき』では、その後、善正法師ぜんしょうほうしの弟子の善志大徳ぜんしだいとく宝珠山岩屋社ほうしゅやまいわやしゃ別当べっとうとなり、彦山ひこさんより代々別当職べっとうしょくが置かれたと記しています。

そして『来歴略記らいれきりゃくき』では、欽明天皇きんめいてんのう8年(547)神殿しんでん岩上いわうえ権現岩ごんげんいわ霊光れいこうがあり、社僧しゃそう霊光れいこうを怪しんで登ると2尺ばかりの石函せっかんから光明こうみょうが放たれ、山上さんじょうが照り輝きます。社僧しゃそうは直ちに岩下いわした神殿しんでん安置あんちし、これが彦山権現ひこさんごんげん第一の神宝しんぽう宝珠石ほうしゅせき」とされ、宝珠山村ほうしゅやまむらの名の語源となりました。村の伝承でんしょうでは、7日7晩に渡って天地轟てんちとどろき、天が焼け、霊光れいこうが四方に輝き、宝珠山岩屋ほうしゅやまいわやに降り注いだとされ、「きょうはな」で霊光れいこうしずめるため一心不乱にきょうを読んでしずめたと伝えられています。

大化たいか4年(648)閏年うるうどし、近隣の宝珠山ほうしゅやま老農ろうのう掛橋かけはし手島某てしまなにがし、そして栗木野くりきの井上某いのうえなにがしなどに「茅薦かやこもで包んで宝珠石ほうしゅせきまつれ」と神からお告げがあります。旧暦9月19日に手島某てしまなにがし井上某いのうえなにがし岩屋社いわやしゃ社僧しゃそうとで12枚の茅薦かやこも宝珠石ほうしゅせきを包んでまつったとされ、4年毎の閏年うるうどしに上の10枚を取り換える「薦替こもか神事しんじ」の始まりとなったと『来歴略記らいれきりゃくき』は伝えています。

彦山縁起ひこさんえんぎ』では、大宝たいほう元年(701)春、役行者えんのぎょうじゃ日子山ひこさんに入り、三期入峯さんきにゅうぶ修歴しゅうれきして入峰修行にゅうぶしゅぎょうの起源となったとしています。この三期入峯さんきにゅうぶは、下記の三期に渡る入峰修行にゅうぶしゅぎょうで、後の英彦山ひこさん宝満山ほうまんさん修験道しゅげんどうの基礎となります。

  • 春峰はるみね英彦山ひこさん胎蔵界たいぞうかい)→ 宝満山ほうまんさん金剛界こんごうかい)→ 英彦山ひこさん
  • 夏峰なつみね英彦山ひこさん胎蔵界たいぞうかい)→ 宝満山ほうまんさん金剛界こんごうかい)→ 英彦山ひこさん
  • 秋峰あきみね英彦山ひこさん胎蔵界たいぞうかい)→ 福智山ふくちやま英彦山ひこさん

来歴略記らいれきりゃくき』によれば、大宝たいほう年中ねんちゅう(701-704)役行者えんのぎょうじゃ宝珠山ほうしゅやま岩屋権現社いわやごんげんしゃに来訪。本殿脇ほんでんわきの「はりみみ」を形成する行者岩ぎょうじゃいわ梵字岩ぼんじいわ梵字ぼんじ不動明王ふどうみょうおう[カンマン]、胎蔵界たいぞうかい大日如来だいにちにょらい[ア]、金剛界こんごうかい大日如来だいにちにょらい[ハ]、愛染明王あいぜんみょうおう[ウン]を彫刻。持っていたつえを地面に刺すと大公孫樹おおいちょうになったとしています。

この善正ぜんしょう忍辱にんにく以降の役行者えんのぎょうじゃ伝承でんしょうに至る期間、日子山ひこさん衰微すいびしたとも伝えていますが、中興ちゅうこうとされる法蓮上人ほうれんしょうにんが8世紀~9世紀初頭に彦山玉屋窟ひこさんたまやくつ般若窟はんにゃくつ)での修行しゅぎょうを収め、如意宝珠にょいほうじゅを手に入れます。

続日本紀しょくにほんぎ』、及び『八幡宇佐宮うさじんぐう御託宣集ごたくせんしゅう』に見る法蓮上人ほうれんしょうにんは、大宝たいほう3年(703)毉術いじゅつ呪術じゅじゅつ祈祷きとう)をしょうされ豊後国ぶんごのくにの40町をたまわったのが初見で、養老ようろう3年(719)の隼人はやとの乱に際し、翌養老ようろう4年(720)討伐軍と共に宇佐八幡神うさはちまんしん彦山権現ひこさんごんげん法蓮ほうれんとその弟子(華厳けごん覚満かくまん体能たいのう)で同行。養老ようろう5年(721)法蓮ほうれんとその一族に「宇佐君うさのきみ」のせいたまわり、神亀じんき2年(725)宇佐八幡宮うさはちまんぐう神宮寺じんぐうじであった弥勒寺みろくじを開き初代別当しょだいべっとうとなった人物です。

彦山流記ひこさんるき』によれば、法蓮上人ほうれんしょうにん彦山玉屋窟ひこさんたまやくつ般若窟はんにゃくつ)に12年間の修行しゅぎょうこもって修行しゅぎょうを積み、日子山権現ひこさんごんげんを収め、仏法ぶっぽうの象徴であり仏教の宝である「如意宝珠にょいほうじゅ」を手に入れます。その後、八幡神はちまんしんに乞われて如意宝珠にょいほうじゅ宇佐八幡宮うさはちまんぐうおさめ、神亀じんき2年(725)宇佐八幡宮うさはちまんぐう神宮寺じんぐうじである弥勒寺みろくじを開いて初代別当しょだいべっとうとなりました。その100年後近い弘仁こうにん10年(819)法蓮ほうれん宮中きゅうちゅう参内さんだいし、嵯峨天皇さがてんのうより優れた呪術じゅじゅつ・医術をしょうされ、日子山霊山ひこさんれいざんを「彦山霊仙寺ひこさんれいせんじ」と改称を勅許ちょっきょ。及び、霊仙寺れいせんじ寺領じりょうとして七里四方の神領しんりょうが与えられ、勅命ちょくめいより鎮護国家ちんごこっかのため建立こんりゅうされた勅願寺ちょくがんじとされました。そして帰山きさんした法蓮上人ほうれんしょうにんは、霊仙寺れいせんじ仏閣ぶっかく彦山十二所権現ひこさんじゅうにしょごんげん造営ぞうえいし、「彦山四十九窟ひこさんしじゅうきゅうくつ」を整備したとされています。

彦山流記ひこさんるき』によれば、往時おうじは一辺が五間ごけん(約12m)で四方にひさしがつく大日堂だいにちどうがあり、丈六たけろく(約3m)の大日如来だいにちにょらいなどがまつられていたともされています。

『彦山流記』

第三寶珠山窟有大日堂一宇、五間四面、本尊者三躰[大日如来・丈六、不動尊并童子]、傳云、此窟有如意寶珠、末代行者當行賜之[云々]、故曰寶珠山窟矣、守護神禪貳師童子也。

彦山四十九窟ひこさんしじゅうきゅうくつは、下記の三窟さんくつでそれぞれ神仏しんぶつ宿やど石躰しゃくたいとして、如意宝珠にょいほうじゅ信仰しんこうの中核とされていました。

  • 第一窟だいいちくつ:「八角水精石はっかくすいしょうせき彦山玉屋窟ひこさんたまやくつ般若窟はんにゃくつ
  • 第二窟だいにくつ:「琥珀珠こはくしゅ豊前国蔵持山ぶぜんのくにくらもちやま
  • 第三窟だいさんくつ:「宝珠石ほうしゅせき宝珠山ほうしゅやま

永暦えいれき元年(1160)後白河上皇ごしらかわじょうこうが京都に新熊野十二所権現しんくまのじゅうにしょごんげんを創設。養和ようわ元年(1181)彦山ひこさんをその荘園しょうえんとすることで紀州国きいのくに熊野三山くまのさんざん修験道しゅげんどうの影響が徐々に入り始めます。岩屋神社いわやじんじゃ本殿ほんでんより20m高いところに鎮座ちんざしている熊野神社くまのじんじゃは、その断崖だんがい磨崖梵字まがいぼんじが彫られ嘉禎かてい3年(1237)の銘文めいぶんがあり、岩屋神社いわやじんじゃにおいてはその当時には熊野修験くまのしゅげんの影響があった浸透してきていたと考えられています。室町時代に胎蔵界たいぞうかいとしての彦山ひこさん金剛界こんごうかい宝満山ほうまんさん尾根筋おねすじ踏破とうはする入峰修行にゅうぶしゅぎょうが確立されると、玉置宿たまきしゅく玉来宿たまきしゅく)として修行しゅぎょうの重要拠点とされました。

元禄げんろく16年(1703)までに当項が編纂へんさんされた貝原益軒かいばらえきけんによる『筑前国続風土記ちくぜんのくにしょくふどき』では、現存はしないものの徳治年中とくじねんちゅう(1306-1307)に岩屋権現社いわやごんげんしゃ棟札むねふだがあったと伝えています。『来歴略記らいれきりゃくき』によれば、文明ぶんめい10年(1478)宝殿ほうでん建立こんりゅう文明年間ぶんめいねんかん(1469-1487)岩屋六坊いわやろくぼうとも呼ばれ、僧坊そうぼうも多く七堂伽藍しちどうがらん金堂こんどう講堂こうどうとう食堂しょくどう鐘楼しょうろう経蔵きょうぞう僧坊そうぼう)で祭祀さいしが盛んであったとされています。

しかし、永禄天正年中えいろくてんしょうねんちゅう(1558-1592)彦山ひこさん秋月種実あきづきたねざねと軍事同盟を結んだため、永禄えいろく11年(1568)、天正てんしょう9年(1581)の大友宗麟おおともそうりん義統よしむねとの戦いでちを受け徹底的に破壊され荒廃。岩屋社いわやしゃもまた、わずかに岩屋坊いわやぼうの子孫だけが相続して祭祀さいしつかさどるのみとなり、慶長けいちょう11年(1606)に至り、小石原こいしわら松尾城主まつおじょうしゅ中間統胤なかまむねたね岩屋権現社いわやごんげんしゃ本殿ほんでん再建さいけんしたと『来歴略記らいれきりゃくき』は伝えています。

彦山ひこさん宝満山ほうまんさん聖護院しょうごいんとの本末論争ほんまつろんそうと、その狭間はざまで】

中世末、修験道しゅげんどう天台宗系てんだいしゅうけい本山派ほんざんは真言宗系しんごんしゅうけい当山派とうざんはの二派による支配が進みました。江戸時代に入ると、江戸幕府は国々を横断して修行しゅぎょうする修験道しゅげんどうを危けわ視して統制を強めることとなります。彦山ひこさん本山派ほんざんは総本山そうほんざん聖護院しょうごいんの系統であるものの、独自の発展をしてきていたことから、宝満山ほうまんさん修験道しゅげんどうを含めての本末論争ほんまつろんそうを引き起こすこととなります。

慶長けいちょう7年(1601)本山派ほんざんは当山派とうざんはの確執がピークを迎え、江戸幕府は慶長けいちょう18年(1613)「修験道法度しゅげんどうはっと山伏法度やまぶしはっと)」を発布はっぷ。圧倒的な本山派ほんざんはによる修験道山伏しゅげんどうやまぶしの支配力を嫌い、本山派ほんざんは当山派とうざんはとは別派べっぱとして認定し、互いに牽制けんせいさせる意図がありました。元和げんな4年(1618)には、当山派とうざんは本山派ほんざんは以外の山伏やまぶし偽山伏にせやまぶしとして諸国勧進しょこくかんじんを禁止し、本山派ほんざんは当山派とうざんはの必ずどちらかの派に属するものとされます。しかし、本山派ほんざんは聖護院しょうごいんと関係があるものの、独自の歴史を持っていた彦山ひこさん聖護院しょうごいんの配下になることに抵抗します。

  • 本山派ほんざんは天台宗系てんだいしゅうけい修行しゅぎょうの拠点は熊野三山くまのさんざん本寺ほんじ聖護院しょうごいん
  • 当山派とうざんは真言宗系しんごんしゅうけい修行しゅぎょうの拠点は大峰山おおみねさん本寺ほんじ三宝院さんぽういん醍醐寺だいごじ)。

この流れの中、慶長けいちょう7年(1601)9月15日小倉藩主こくらはんしゅ(前豊前国主ぶぜんこくしゅ)の細川忠興ほそかわただおき日野輝資ひのてるすけの次男・玄賀げんが・くろよしを養子として細川忠有ほそかわただありと改名し、彦山ひこさん世襲座主せしゅうざす舜有しゅんゆうの孫である遺児いじ昌千代姫まさちよひめと婚約を結ばせます。その結果、細川忠有ほそかわただあり玄賀げんが・くろよし)が彦山座主ひこさんざすを相続。10月に細川忠興ほそかわただおき彦山座主ひこさんざす細川忠有ほそかわただあり玄賀げんが・くろよし)に知行し、12月23日には福岡藩ふくおかはん初代藩主しょだいはんしゅ黒田長政くろだながまさ上座郡じょうざぐん黒川村くろかわむらの300石を寄進きしんしました。その動乱の中、『来歴略記らいれきりゃくき』によれば、慶長けいちょう11年(1606)小石原こいしわら松尾城主まつおじょうしゅ中間統胤なかまむねたねにより岩屋権現社いわやごんげんしゃ本殿ほんでん再建さいけんされています。

元和げんな9年(1623)9月に黒田長政くろだながまさの死去から第2代福岡藩藩主ふくおかはんはんしゅ黒田忠之くろだただゆきになると黒川村くろかわむらの300石は彦山ひこさん再寄進さいきしんされることなく没収されます。岩屋神社いわやじんじゃには、黒田忠之くろだただゆき宝珠山岩屋社ほうしゅやまいわやしゃ茅薦かやこもに包まれた宝珠石ほうしゅせきを見んとこもぐと白蛇しろへびが襲い掛かり、命からがら逃げ帰るとの伝承でんしょうが残されていることからも彦山ひこさん、そして宝珠山岩屋社ほうしゅやまいわやしゃ福岡藩ふくおかはんとの関係性は悪化していたと考えられています。

来歴略記らいれきりゃくき』によれば、寛永かんえい20年(1643)2000石で宝珠山村ほうしゅやまむらに入った筑紫四郎右衛門興門つくししろううえもんおきかど岩屋権現社いわやごんげんしゃ本殿ほんでん再建さいけんし、末社まっしゃ7社も再興さいこう祭祀さいし田畑御供料でんばたごくりょうとして田数でんすう八畝畠高はたけだか六石を寄進きしんされます。毎年、御供料ごくりょうとして一石三斗二升も寄進きしんされることとなり本格的に復興が進みました。この後、筑紫氏つくししは代々、岩屋社いわやしゃ木造鳥居もくぞうとりい寄進きしんすることとなります。

承応じょうおう3年(1654)福岡藩藩主ふくおかはんはんしゅが第3代・黒田光之くろだみつゆきに代わると、明暦年間めいれきねんかん(1655-58)福岡藩ふくおかはんは、藩内の修験道しゅげんどうを取り仕切る「惣職そうしょく」に博多の真言宗当山派しんごんしゅうとうざんは明厳院みょうごんいんを指名。明厳院みょうごんいんを通して山伏やまぶしを支配するようかじを切ります。それに対し宝満山ほうまんさんはその配下になることに反発し、彦山ひこさんに協力を求めます。この時の宝満山ほうまんさんの使者であった財行坊ざいぎょうぼう山中坊やまなかぼうは「宝満山ほうまんさん彦山ひこさん末山まつさんまぎれ無き」との証文しょうもんを受けたことで、逆に宝満山ほうまんさん彦山ひこさん末山まつさんであると主張されることになりました。

これを機に、彦山ひこさん宝満山ほうまんさん、そして本山派ほんざんは本寺ほんじである聖護院しょうごいんとの本末論争ほんまつろんそうが勃発します。

宝満山ほうまんさんおさ法頭ほうず)であった平石坊弘有ひらいしぼうこうゆう彦山ひこさん末山まつさんになることに反発。万治まんじ元年(1658)2月18日、平石坊弘有ひらいしぼうこうゆう福岡藩ふくおかはんに対し、真言宗系しんごんしゅうけい当山派とうざんは明厳院みょうごんいんへの支配下に、天台宗系てんだいしゅうけい彦山ひこさん末山まつさん末寺まつじも含め宝満山ほうまんさんの傘下に置くよう主張。それにより宝満山ほうまんさん親彦山派しんひこさんはと、聖護院しょうごいんの配下とする反彦山派はんひこさんは親聖護院派しんしょうごいんは)に分裂します。そして宝満山ほうまんさん内部での対立は、宝満山ほうまんさんを巡る彦山ひこさん聖護院しょうごいんの対立、本末論争ほんまつろんそうへと発展することとなりました。そして寛文かんぶん5年(1665)に「古来宝満山こらいほうまんさん金剛界こんごうかい彦山ひこさん胎蔵界たいぞうかい役行者えんのぎょうじゃ以来ならび立ちたるみねうけたまわそうろう」と主張して聖護院しょうごいん末山まつさんとなります。

この宝満山ほうまんさんの動きに彦山ひこさんは激怒し、宝満山山伏ほうまんさんやまぶし秋峰あきみね入峰修行にゅうぶしゅぎょう宝珠山岩屋社ほうしゅやまいわやしゃから彦山ひこさんに入るのを許さず、彦山ひこさんでの修行しゅぎょうは中止になります。

その後、平石坊弘有ひらいしぼうこうゆうは数度の上洛じょうらくの後、延宝えんぽう4年(1676)聖護院門主しょうごいんもんしゅ拝謁はいえつを果たします。天和てんな2年(1682)彦山座主相有ひこさんざすともあり夏峰なつみね修行しゅぎょう宝満山ほうまんさんに入るも平石坊弘有ひらいしぼうこうゆうは面会を拒否。貞享じょうきょう2年(1685)平石坊弘有ひらいしぼうこうゆう聖護院門主しょうごいんもんしゅの招きで大峰山入峰おおみねさんにゅうぶにおとも。この動きの中で聖護院しょうごいんは、彦山ひこさん聖護院しょうごいん末山まつさんで、宝満山ほうまんさんの支配権は聖護院しょうごいん側にあると主張するに及び、「彦山ひこさん宝満山ほうまんさん」の本末論争ほんまつろんそうは「彦山ひこさん聖護院しょうごいん」にまで発展することになりました。

この本末論争ほんまつろんそうの対立の中で両陣営の先端となっていたのが宝珠山岩屋社ほうしゅやまいわやしゃでした。また、自国領内の修験道しゅげんどうの各山・寺を統制下に置きたいと考えていた福岡藩ふくおかはんとしては、何としてでも彦山末ひこさんまつから宝満山末ほうまんさんまつ鞍替くらがえさせる必要があったと考えられています。

平石坊弘有ひらいしぼうこうゆう大峰山入峰おおみねさんにゅうぶにおともした貞享じょうきょう2年(1685)の「彦山ひこさん末山付まつさんつき」には「宝珠山岩屋坊ほうしゅやまいわやぼう」と記されており、この時までは岩屋社いわやしゃ彦山ひこさん末山まつさんとなっていたことが確認されています。しかし、岩屋社いわやしゃ筑前領内ちくぜんりょうないの重要な拠点で、福岡藩ふくおかはんとしても彦山ひこさんから宝満山ほうまんさん鞍替くらがえさせたい地でした。一方、岩屋社いわやしゃ寛永かんえい20年(1643)の再建さいけんから40年経っており、境内けいだい整備が求められている時期でもありました。

彦山ひこさん福岡藩ふくおかはん寺社奉行じしゃぶぎょう宝満山ほうまんさん彦山ひこさん末山まつさんと訴え出た貞享じょうきょう3年(1686)の2月に岩屋社いわやしゃ境内社けいだいしゃで、聖護院しょうごいん熊野修験くまのしゅげんの流れを汲む熊野十二所権現社くまのじゅうにしょごんげんしゃ再建さいけんされます。貞享じょうきょう3年(1686)岩屋社いわやしゃ本殿ほんでんまでの石階段を造営ぞうえい貞享じょうきょう4年(1687)村民により住吉大明神社すみよしだいみょうじんしゃ建立こんりゅうされました。

貞享じょうきょう3年(1686)彦山ひこさん福岡藩ふくおかはん寺社奉行じしゃぶぎょうに対し、宝満山ほうまんさん彦山ひこさん末山まつさんであると訴え出ます。貞享じょうきょう5年(1688)福岡藩ふくおかはん彦山ひこさん宝満山ほうまんさん聖護院しょうごいん末山まつさん沙汰さたを下し、彦山ひこさん宝満山ほうまんさん本末ほんまつの判断を下しませんでした。しかし、騒動の原因となった宝満山ほうまんさん側の関係者を処分します。宝満山ほうまんさん彦山ひこさん末山まつさんとの証文しょうもんを入れさせた財行坊ざいぎょうぼう山中坊やまなかぼうを追放。宝満山ほうまんさん衆頭しゅうとう平石坊弘有ひらいしぼうこうゆう離山りざんさせ禁固とし、元禄げんろく2年(1692)2月に彦山ひこさん宝満山ほうまんさんとは一応の和解を見ます。

その当時、宝珠山岩屋社ほうしゅやまいわやしゃでは、元禄げんろく2年(1692)3月1日に鳥井口とりいぐちの一の鳥居とりい建立こんりゅう額束がくづかは現在残っていないものの、貝原益軒かいばらえきけんの妻・貝原東軒かいばらとうけんの書とされています。元禄げんろく2年(1692)9月20日には本殿ほんでん右手のほこら薬師堂やくしどう建立こんりゅうされました。

しかし、元禄げんろく6年(1693)宝満山新座主ほうまんさんしんざす兼雅かねまさ?けんが?聖護院しょうごいん入峰にゅうぶのおともをして、宝満山ほうまんさんは完全に聖護院しょうごいん末山まつさんとなります。彦山ひこさんはそれに対し反発を強め、とうとう聖護院しょうごいんとの対立が直接的に顕現けんげんします。

ついに彦山ひこさんは、元禄げんろく8年(1695)11月に彦山ひこさんは「宝満山ほうまんさん彦山ひこさん末山まつさんであり、彦山ひこさん聖護院しょうごいん末山まつさんではない」と幕府の寺社奉行じしゃぶぎょうに訴え出ました。

幕府は彦山ひこさんの提訴を受け、元禄げんろく9年(1696)3月、幕府による裁定が出されます。内容は、幕府は彦山ひこさんは、一度もどこかの末山まつさんになったことはないので別格本山べっかくほんざんと認める。そして宝満山ほうまんさん聖護院しょうごいん末山まつさんとする。これによって彦山ひこさん宝満山ほうまんさん、及び聖護院しょうごいんとの和解が成立しました。

この本末論争ほんまつろんそうの後、宝珠山岩屋社ほうしゅやまいわやしゃは、宝満山ほうまんさん末山まつさんとなります。貞享じょうきょう2年(1685)彦山ひこさん文書もんじょに「彦山ひこさん末山付まつさんつき」に「宝珠山岩屋坊ほうしゅやまいわやぼう」との名が記されているのが彦山ひこさん末山まつさんとしての最後です。宝満山ほうまんさん末山まつさんとしての記載は享保きょうほう3年(1718)の宝満山ほうまんさん秋峰あきみね修行しゅぎょう岩屋坊いわやぼうが参加したことが記されているのが初見ですが、貞享じょうきょう2年(1685)から本末論争ほんまつろんそうが決着した元禄げんろく9年(1696)までの間に彦山ひこさんから宝満山末ほうまんさんまつへと鞍替くらがえしたと考えられています。

本末論争ほんまつろんそうの決着の後、宝珠山岩屋社ほうしゅやまいわやしゃでは、本殿ほんでんを始めとする建立こんりゅうが行われます。本末論争ほんまつろんそうが決着した元禄げんろく9年(1696)の翌々年の元禄げんろく11年(1698)9月、福岡藩ふくおかはん4代藩主だいはんしゅ黒田綱政くろだつなまさ宝珠山ほうしゅやま岩屋権現社いわやごんげんしゃ本殿ほんでん建立こんりゅう。この建立こんりゅうは、藩の財政難の中の建立こんりゅうであり、黒田家くろだけから御普請料ごぶしんりょうとして白銀20枚、材木の寄進きしんがあり、社地しゃちとして13,000坪を寄進きしんされました。

【江戸中期から現代】

江戸中期に入ると、村民の手による復興・再建さいけんが主体となってきます。享保きょうほう2年(1717)2月、村民から石燈籠いしどうろう奉納ほうのう享保きょうほう15年(1730)7月、村民が薬師堂やくしどう改営かいえい元文げんぶん2年(1737)8月、村民が御神体ごしんたいを収める厨子ずしとして内殿ないでん建立こんりゅう元文げんぶん2年(1737)11月、住吉大明神社すみよしだいみょうじんしゃ改営かいえいし、現在は薬師堂やくしどう合祀ごうしされている虚空蔵堂こくぞうどう建立こんりゅうされました。

元文げんぶん年間ねんかん(1736-1741)福岡藩ふくおかはん6代藩主だいはんしゅ黒田継高くろだつぐたか子女しじょが誕生するたびに祈祷きとうおおつかわされていたことが『来歴略記らいれきりゃくき』に記されています。寛保かんぽう2年(1742)夏、岩屋社いわやしゃ本殿ほんでんの屋根の上に小竹こたけが向かい合って2本生え、若殿様わかとのさま御吉事おんきちじと出る奇瑞きずいとして12月に、福岡城下ふくおかじょうかの役人に申し出ます。寛保かんぽう3年(1742)正月、もう一本生えて福岡藩ふくおかはんからの参詣さんけいしての見分けんぶんがあり、1月28日、福岡藩主ふくおかはんしゅ若殿わかとのから御初穂おはつほとして御金子おんきんす神納しんのうされました。又、その際に「当山とうざん大日如来だいにちにょらい疱瘡守護ほうそうしゅご霊仏れいぶつである」と具申ぐしんすると、疱瘡安全ほうそうあんぜん祈願きがんを行うこととなり、以降、疱瘡流行時ほうそうりゅうこうじ祈願きがんを行い御守札おまもりふだ献上けんじょうするようめいぜられました。

延享えんきょう4年(1747)7月、元禄げんろく11年(1698)の本殿ほんでん建立こんりゅうから50年近く経っていたことから再建さいけんが図られ、岩屋権現建立いわやごんげんこんりゅう勧請芝居かんじょうしばい上座じょうざ下座げざ夜須やす三笠みかさの四郡で許可されます。

宝暦ほうれき2年(1752)7月、村民により大日堂だいにちどうに上がる石段が造営ぞうえいされ、5~8月には当山石門とうざんせきもん中宮ちゅうぐうの・洞門どうもん)が掘られました。しかし、宝暦ほうれき4年(1754)40日間もの梅雨の長雨、8月の台風、10月24日の落雷で鳥居とりいが壊れるなどの被害。宝暦ほうれき5年(1755)3月、福岡藩ふくおかはん岩屋社いわやしゃ本殿ほんでんの改築のため福岡藩領内ふくおかはんりょうないでの相対勧化あいたいかんげ勧請かんじょう)を許可します。宝暦ほうれき7年(1757)7月、大日堂だいにちどうへのくさり日田ひた崇敬すうけい者から寄進きしん宝暦ほうれき8年(1758)石燈籠いしどうろう日田ひた崇敬すうけい者から寄進きしん。そして同年12月5日、岩屋社いわやしゃ本殿ほんでん中宮ちゅうぐう建立こんりゅうのため大工が小屋入りします。宝暦ほうれき9年(1759)4月5日、遷宮移徒せんぐうわたましが行われ、4月中に、高住神社たかすみじんじゃ氏森大明神うじもりだいみょうじん金比羅大明神ことひらだいみょうじん中宮ちゅうぐう勧請かんじょう。4月23日、普請ぶしん成就じょうじゅし、現在に伝わる本殿ほんでん中宮ちゅうぐう建立こんりゅうされました。同年5月には五百羅漢ごひゃくらかん千躰地蔵せんたいじぞう千躰仏せんたいぶつ)がまつられます。後に、慶応けいおう4年(1868)廃仏毀釈はいぶつきしゃくにより石仏せきぶつは破壊されて、谷底に放り込まれることとなりますが、村民に拾われた153体が現在、うま首根岩こうねいわの斜面に安置あんちされています。

宝暦ほうれき12年(1762)9月13日-19日にかけて大日如来だいにちにょらい社の950年供養ねんくよう斎行さいこう安永あんえい3年(1774)村民により御神体ごしんたい安置あんちする厨子ずし内殿ないでん)、戸張とばり3流、石燈籠いしどうろう2本の寄進きしんがありました。安永あんえい9年(1780)本殿下ほんでんした木造鳥居もくぞうとりい寄進きしんがあり、11月には役行者えんのぎょうじゃの像一体とそれを安置あんちする役行者えんのぎょうじゃ堂を建立こんりゅうされました。現在は廃仏毀釈はいぶつきしゃくで壊されてありませんが、天満宮てんまんぐうの場所にあったとされています。安永あんえい10年(1781)3月、村民の寄進きしんにより下宮げくう天満宮てんまんぐう建立こんりゅう。平成16年(2004)に現在地の中宮下ちゅうぐうした石階段の踊場横おどりばよこ遷座せんざしました。

明治期に入ると慶応けいおう4年・明治元年(1868)3月28日の「神仏分離令しんぶつぶんりれい」に続き、明治5年(1872)9月15日の「修験宗廃止令しゅげんしゅうはいしれい」が出されて修験者しゅげんしゃ天台てんだい真言しんごん両宗りょうしゅう包摂ほうせつされ、解体されることとなりました。宝珠山岩屋社ほうしゅやまいわやしゃも、無格社むかくしゃ岩屋神社いわやじんじゃとして再出発することとなりました。

昭和25年(1950)7月29日に岩屋神社いわやじんじゃ周辺一帯・岩屋公園いわやこうえんが「耶馬日田英彦山やばひたひこさん国定公園こくていこうえん」に指定。昭和35年(1960)8月5日「宝珠山岩屋ほうしゅやまいわやしゃ大岩おおいわ」・「岩屋いわや大公孫樹おおいちょう」が福岡県指定天然記念物に指定。昭和36年(1961)10月20日に「岩屋いわやのゲンカイツツジ」が、昭和51年(1976)4月24日に「岩屋いわやのオオツバキ」が福岡県指定天然記念物に追加で指定されました。

昭和63年(1988)6月7日、24-25日の2度に渡り本格的な学術調査が行われ、同年12月19日に「岩屋神社いわやじんじゃ本殿ほんでん境内社けいだいしゃ熊野神社くまのじんじゃ本殿ほんでん」が国指定重要文化財くにしていじゅうようぶんかざいの指定がなされました。平成17年(2005)1月30日から修理と共に本格的な発掘調査が行われました。同年11月18日に熊野神社くまのじんじゃ上棟式じょうとうしき、平成18年(2006)6月20日に本殿ほんでん上棟式じょうとうしき斎行さいこうされ、同年10月16日に竣工式しゅんこうしきり行われました。

宝珠石ほうしゅせき本殿ほんでん

権現岩ごんげんいわと称される大岩おおいわの下のくぼみに建つ岩屋神社いわやじんじゃ本殿ほんでんは、英彦山ひこさん修験しゅげんに関係する貴重な遺構いこうとして、また、岩場のけわしい環境に適合した建築形態をとっていることから昭和63年(1988)12月19日に境内社けいだいしゃ熊野神社くまのじんじゃ本殿ほんでんと共に国指定重要文化財くにしていじゅうようぶんかざいの指定を受けています。本殿ほんでん外殿がいでんは、桁行けたゆき五間ごけん梁間はりま五間ごけん茅杉皮重葺かやすぎかわかさねぶききの入母屋造いりもやづくり。正面には参拝者用さんぱいしゃよう桁行けたゆき三間さんけん向拝こうはいがあります。茅薦包かやこもつつみの「宝珠石ほうしゅせき」を安置あんちし、その後方の内殿ないでん三間社見世棚造さんげんしゃみせだなづくりで、英彦山権現ひこさんごんげんと同神の御神像ごしんぞう天忍穂耳尊あめのおしほみみのみこと伊弉諾尊いざなぎのみこと伊弉冊尊いざなみのみこと)を安置あんちしています。宝珠石ほうしゅせきは、仏の教えの象徴で、何でも願いがかなう不思議なたま宝石ほうせきとされています。

筑前国続風土記ちくぜんのくにしょくふどき』では、現存はしないものの徳治年中とくじねんちゅう(1306-1307)に岩屋権現社いわやごんげんしゃ棟札むねふだがあったと伝えられ、『来歴略記らいれきりゃくき』によれば文明ぶんめい10年(1478)宝殿ほうでん建立こんりゅうしたことが記されています。しかし、永禄天正年中えいろくてんしょうねんちゅう(1558-1592)彦山ひこさん秋月種実あきづきたねざねと軍事同盟を結んだため、大友宗麟おおともそうりん義統よしむねとの戦いでちを受け徹底的に破壊。慶長けいちょう11年(1606)に至り、小石原こいしわら松尾城主まつおじょうしゅ中間統胤なかまむねたね再建さいけんしたと『来歴略記らいれきりゃくき』は伝えています。元禄げんろく11年(1698)9月、福岡藩ふくおかはん4代藩主だいはんしゅ黒田綱政くろだつなまさにより本格的に再建さいけん宝暦ほうれき9年(1759)4月23日の改築、安永あんえい3年(1774)内殿ないでんの改築を経て、2006年(平成18年)10月、できる限り使われている材料を活かし修繕しゅうぜんされました。

宝珠石ほうしゅせきまつわる重要な神事しんじは、閏年うるうどしの10月19日に斎行さいこうされる「薦替こもか神事しんじ」です。「薦替こもか神事しんじ」では、宝珠石ほうしゅせきを目にするのは禁忌きんきとされています。もし目にすると目がつぶれるとされ、目におおいをかぶせ、決して宝珠石ほうしゅせきを直接目にすることが無いよう慎重に手探りで斎行さいこうされる神事しんじです。そのため宝珠石ほうしゅせきの正体は不明とされています。通説では宝珠石ほうしゅせきは、本殿ほんでんの正面にまつられている茅薦かやこもで包まれた大石おおいしと考えられていますが、近年は3つの説が考えられています。

  • 本殿ほんでん正面の茅薦かやこもで包まれ「薦替こもか神事しんじ」の御神体ごしんたいとされる大人5人が取り囲むほどの大石おおいし1体。元は隕石いんせきか?
  • 本殿ほんでん正面の突き出た大石おおいしの上に飛来ひらいしたとされる隕石いんせきを合せてまつっている。
  • 茅薦かやこもで包まれた大石おおいしの上方、権現岩ごんげんいわ窟壁くつへきから湧出ゆうしゅつするように突き出た自然石じねんせき

この3つの説の中、③の説は平成17年(2005)岩屋神社いわやじんじゃ本殿ほんでん解体修理工事における発掘調査と、宝永ほうえい6年(1709)に完成を見た貝原益軒かいばらえきけんによる『筑前国続風土記ちくぜんこくしょくふどき』における記載から注目すべき指摘と考えられています。

【①】の説の由来となっているのは天保てんぽう4年(1833)に書かれた『来歴略記らいれきりゃくき』です。継体天皇けいたいてんのう26年(532)善正法師ぜんしょうほうし日子山ひこさんに続いて宝珠山岩屋ほうしゅやまいわやしゃを開きます。その15年後の欽明天皇きんめいてんのう8年(547)神殿しんでん岩上いわうえ権現岩ごんげんいわ霊光れいこうがあり、社僧しゃそう霊光れいこうを怪しんで登ると2尺ばかりの石函せっかんから光明こうみょうが放たれ、山上さんじょうが照り輝きます。社僧しゃそうは直ちに岩下いわした神殿しんでん安置あんちし、これを彦山権現ひこさんごんげん第一の神宝しんぽう宝珠石ほうしゅせき」とし、宝珠山村ほうしゅやまむらの名の語源となりました。村の伝承でんしょうでは、7日7晩に渡って天地轟てんちとどろき、天が焼け、霊光れいこうが四方に輝き、宝珠山岩屋ほうしゅやまいわやに降り注いだとされ、「きょうはな」で霊光れいこうしずめるため一心不乱にきょうを読んでしずめたと伝えられています。村の伝承でんしょうでは、宝珠石ほうしゅせきを「ほしの玉・ほしさま」と呼び、天から降ってきたとされています。一方で「宝珠ほうしゅほし」に変換されたとの指摘もされています。また、貞観じょうがん3年(861)直方市なおかたし須賀神社すがじんじゃ社伝しゃでんにて火球かきゅうの記録が残されており、その時の火球かきゅうの原因となった隕石いんせきではとの指摘もなされています。

また、大化たいか4年(648)閏年うるうどし、近隣の宝珠山ほうしゅやま老農ろうのう掛橋かけはし手島某てしまなにがし、そして栗木野くりきの井上某いのうえなにがしなどに「茅薦かやこもで包んで宝珠石ほうしゅせきまつれ」と神からお告げがあります。旧暦9月19日に手島某てしまなにがし井上某いのうえなにがし岩屋社いわやしゃ社僧しゃそうとで12枚の茅薦かやこも宝珠石ほうしゅせきを包んでまつったとされ、4年毎の閏年うるうどしに上の10枚を取り換える「薦替こもか神事しんじ」の始まりとなったと『来歴略記らいれきりゃくき』は伝えています。

続いて【②】の説は、いにしえ隕石いんせき由来と思われる霊光れいこうがあったとする伝承でんしょう、そして如意宝珠にょいほうじゅの形体からかんがみて、段にして重ねてまつっているとの説になります。

最後に【③】の説は、平成17年(2005)の発掘調査にて明らかになった事実から提唱されるようになったものです。この岩屋神社いわやじんじゃ本殿ほんでん再建さいけんに向けて、平成17年(2005)事前の発掘調査が行われました。その調査で窟内の神殿しんでんを解体を進めると、茅薦かやこもで包まれた宝珠石ほうしゅせきのほぼ真上10m程に、直径1~2mに及ぶ半円球の滑らかな表面をした自然石じねんせきが、荒々しい岩肌から湧出ゆうしゅつするかのように姿を出していました。これまで本殿ほんでんの屋根に隠されていたその自然石じねんせきは、あたかも天上てんじょうに輝く巨星きょせいのように見えると調査報告では記されています。

この調査では、8世紀後半(775-800)の僧侶そうりょ托鉢たくはつの時に使用する鉄鉢形土師器てつばちがたはじきを発掘したのと共に、岩屋神社いわやじんじゃ本殿ほんでんは元々は現在の社殿しゃでんとは向きが異なっていたことを明らかにしました。元々の本殿ほんでんは東西南北の方向を意識し、権現岩内壁ごんげんいわないへきから湧出ゆうしゅつするように突き出た自然石じねんせきを最深部中央として、その下を祭場さいじょうにしていたこと。そして後に、その場に本殿ほんでん造営ぞうえいしていたことを明かにしました。そして現在の本殿ほんでんの向き、つまり茅薦包かやこもつつみの宝珠石ほうしゅせき内殿ないでん御神像ごしんぞうを中心軸にしてまつる形態へ変更されたのは、本末論争ほんまつろんそうの中で彦山末ひこさんまつから宝満山末ほうまんさんまつとなり、その褒賞ほうしょうとして再建さいけんされた元禄げんろく11年(1698)以降だと明らかにしています。また、内殿ないでん英彦山権現ひこさんごんげんと同神の御神像ごしんぞう天忍穂耳尊あめのおしほみみのみこと伊弉諾尊いざなぎのみこと伊弉冊尊いざなみのみこと)をまつるようになったのは、宝暦ほうれき9年(1759)から安永あんえい3年(1774)の改築までの期間としています。そしてその後の天保てんぽう4年(1833)の『来歴略記らいれきりゃくき』との間に、本来の崇拝対象すうはいたいしょうである岩窟壁上方くつへきじょうほう自然石じねんせきから、外殿がいでん茅薦包かやこもつつみの宝珠石ほうしゅせき崇拝対象すうはいたいしょうが変更され、内殿ないでんまつ御神像ごしんぞう崇拝すうはいを重視するように切り替えられたと指摘しています。

元々はこの窟壁くつへき上の自然石じねんせきまつっていたことを示唆するものとして元禄げんろく16年(1703)までに当項が編纂へんさんされた貝原益軒かいばらえきけんによる『筑前国続風土記ちくぜんのくにしょくふどき』の記載も残されています。

『筑前國続風土記』巻之十一 上座郡

寶珠山村
(前略)岩屋山三社権現の社あり。本村より一里谷頭にあり。村俗は是彦山権現の母神也と云。社の上に極めて大なる圓岩あり。其下に社あり。故に岩屋権現と云。宮作は南向なり。社の下に拝殿あり。横四間、竪二間あり。拝殿の下に寶珠石あり。其周五圍、高四尺ばかりあり。其上を苫を以てあつくこれを蓋へり。其上よりつもれる尺右の如し、此寶珠石ある故に村の名とす。古き棟札あり。徳治年中と云文字は見え侍れども、其餘は漫滅して、建る所の人の姓名をしらず。


境内社けいだいしゃなど】

熊野神社くまのじんじゃ

貞享じょうきょう3年(1686)2月、天狗てんぐって穴を開けたとされる熊野岩くまのいわけわしい岩場を巧みに利用した懸造かけづくりで再建さいけんされたものです。三間社さんけんしゃ流見世棚造ながれみせだなづくり板葺いたぶき願主がんしゅは不明ですが、伝承でんしょうでは村民とされています。昭和63年(1988)12月19日に「岩屋神社いわやじんじゃ本殿ほんでん境内社けいだいしゃ熊野神社くまのじんじゃ本殿ほんでん」が国指定重要文化財くにしていじゅうようぶんかざいの指定がなされました。御祭神ごさいじんは、速玉男尊はやたまのおのみこと速玉之男神はやたまのおのかみ)・泉津事解男尊よもつことさかのおのみこと泉津事解之男神よもつことさかのおのかみ)・櫲樟日尊くまのくすびのみこと熊野櫲樟日神くまのくすびのかみ)の三柱みはしら養和ようわ元年(1181)後白河上皇ごしらかわじょうこう彦山ひこさんをその荘園しょうえんとすることで熊野三山くまのさんざん修験道しゅげんどう本山派ほんざんは)の影響が徐々に入り始めます。岩屋神社いわやじんじゃ本殿ほんでんより20m高いところに鎮座ちんざしている熊野神社くまのじんじゃは、その断崖だんがい磨崖梵字まがいぼんじが彫られ嘉禎かてい3年(1237)の銘文めいぶんがあり、その当時には熊野修験くまのしゅげんの影響があった浸透してきていたと考えられています。岩壁いわかべには、かつての社殿しゃでん柱穴はしらあななどが残っており、中世の社殿しゃでんは、現在よりもかなり大きかったと考えられています。

大日社だいにちしゃ

御祭神ごさいじんとして少彦名命すくなひこなのみこと大日国尊だいにちくにのみことまつり、粟島社あわしましゃとも称されています。社殿しゃでん上部の岩は疱瘡岩ほうそういわと呼ばれ、疱瘡守護ほうそうしゅご霊仏れいぶつとしてあつ信仰しんこうを集めました。明治以前は、奈良時代の僧・行基菩薩ぎょうきぼさつ(668-749)の作とされる大日如来だいにちにょらいまつられていたとされています。寛保かんぽう3年(1742)「当山とうざん大日如来だいにちにょらい疱瘡守護ほうそうしゅご霊仏れいぶつである」と福岡藩主ふくおかはんしゅ黒田氏くろだし御神徳ごしんとく具申ぐしんの後、疱瘡安全ほうそうあんぜん祈願きがんを行うこととなり、疱瘡流行時ほうそうりゅうこうじには御守札おまもりふだ献上けんじょうするようめいぜられました。『彦山流記ひこさんるき』によれば、宝珠山岩屋社ほうしゅやまいわやしゃが一辺が五間ごけん(約12m)で四方にひさしがつく大日堂だいにちどうで、丈六たけろく(約3m)の大日如来だいにちにょらいなどがまつっていたと記しています。その奉斎ほうさいされていたのは現在の岩屋神社いわやじんじゃ本殿ほんでんであったと考えられていますが、境内社けいだいしゃとして大日社だいにちしゃが、いつどの時期に建造されたのか、また岩屋神社いわやじんじゃ本殿ほんでんから遷座せんざして建造されたのかどうかも経緯は不詳ふしょうです。向かって右は、国玉社くにたましゃです。

中宮ちゅうぐう

うま首根岩こうねいわに掘られた当山石門とうざんせきもんの前に鎮座ちんざ宝暦ほうれき9年(1759)4月の創建そうけん英彦山ひこさん高住神社たかすみじんじゃ豊前坊ぶぜんぼう)、岡垣町おかがきまち氏森大明神うじもりだいみょうじん氏森大明神うじもりじんじゃ讃岐国さぬきのくに金比羅大明神ことひらだいみょうじん中宮ちゅうぐう勧請かんじょうしています。高住神社たかすみじんじゃ豊前坊ぶぜんぼう)は日本八大天狗にほんはちだいてんぐ英彦山ひこさん豊前坊ぶぜんぼう豊前坊大天狗ぶぜんぼうだいてんぐ)が住まうと信仰しんこうされ、江戸時代には牛馬安全ぎゅうばあんぜんの神としてされました。氏森大明神うじもりだいみょうじん氏森大明神うじもりじんじゃ)は、安産あんざんの神として知られ、境内けいだい腰掛こしかけ石に座ると子宝こだからに恵まれ安産あんざんになるとされていました。金比羅大明神ことひらだいみょうじんは、海の神・水の神・龍神りゅうじんとして、雨乞あまごい・五穀豊穣ごこくほうじょうの神として広く信仰しんこうされました。桁行けたゆき二間にけん梁間はりま二間にけん。屋根は入母屋造いりもやづくりの茅杉重葺かやすぎかさねぶき。後方の一間いっけん分にだんもうけ、側面は板壁いたかべだんの正面の板扉いたとびらを開けると正面が金比羅大明神ことひらだいみょうじん、向かって右に氏森大明神うじもりだいみょうじん氏森大明神うじもりじんじゃ)、左に高住神社たかすみじんじゃ豊前坊ぶぜんぼう)の石の御神体ごしんたいまつっています。昭和59年(1984)には屋根にトタン板がかぶせられています。

はりみみ梵字岩ぼんじいわ

本殿ほんでん向かって左の岩の割れ目は、はりみみと呼ばれています。『来歴略記らいれきりゃくき』によれば、大宝たいほう年中ねんちゅう(701-704)に来訪した役行者えんのぎょうじゃが、本殿脇ほんでんわきの「はりみみ」を形成する行者岩ぎょうじゃいわ梵字岩ぼんじいわ梵字ぼんじ不動明王ふどうみょうおう[カンマン]、胎蔵界たいぞうかい大日如来だいにちにょらい[ア]、金剛界こんごうかい大日如来だいにちにょらい[ハ]、愛染明王あいぜんみょうおう[ウン]を彫刻したとされています。親不孝者おやふこうものが通ると、上から石が落ちるとの伝承でんしょうがあります。はりみみとは針の穴を通す穴のことで、山伏やまぶしたちは、このはりみみをくぐり、母胎内ほたいないに一度回帰かいきした後に仏として産まれ変わらんと修練しゅうれんしていたと考えられています。

うま首根岩こうねいわ当山石門とうざんせきもん

中宮ちゅうぐうから本殿下ほんでんしたに抜ける大きな一枚岩(うま首根岩こうねいわ)に開けられた・洞門どうもんは、宝暦ほうれき2年(1752)5~8月に山伏やまぶしが掘ったものと伝えられています。よく見るとタガネの跡が残されています。岩屋神社いわやじんじゃ本殿前ほんでんまえから東へ少し進むとうま首根岩こうねいわの先端部です。見晴らしがよく、日本棚田百選にほんたなだひゃくせんに選ばれているたけ棚田たなだなどが見え、振り返ると権現岩ごんげんいわ本殿ほんでんを見上げることができます。

首無くびな地蔵じぞう千体地蔵せんたいじぞう五百羅漢ごひゃくらかん

来歴略記らいれきりゃくき』によれば宝暦ほうれき9年(1759)5月、時の岩屋坊良海いわやぼうりょうかい祖父そふである良弁りょうべんの発案により千躰仏せんたいぶつまつられます。三十三観音さんじゅうさんかんのん十六羅漢じゅうろくらかん閻魔大王えんまだいおう奪衣婆だつえばさい河原かわらの子供、寄進者きしんしゃからの石仏せきぶつなどが数々安置あんちされていたと伝えられています。慶応けいおう4年(1868)廃仏毀釈はいぶつきしゃくにより石仏せきぶつは破壊され、谷底に打ちてられます。その後、村人によって、仏像ぶつぞう石塔せきとうなどが川からわずかに拾い出され安置あんちされました。しかし、拾い出された仏像ぶつぞうのほとんどには首がありませんでした。現在、村民に拾われた仏像ぶつぞうは、うま首根岩こうねいわの斜面に安置あんちされています。中宮ちゅうぐうの脇には、向かい合わせで奪衣婆だつえば閻魔大王えんまだいおう石像せきぞう安置あんちされています。

天満宮てんまんぐう

大公孫樹おおいちょうから中宮ちゅうぐうへ進む石階段の踊場左おどりばひだり鎮座ちんざ御祭神ごさいじん菅原道真公すがわらのみちざねこう安永あんえい10年(1781)3月、村民の寄進きしんにより下宮げくう建立こんりゅうされました。平成16年(2004)に現在地に遷座せんざしました。

宝珠山岩屋ほうしゅやまいわやしゃ大岩おおいわ

岩屋神社いわやじんじゃ一帯は、英彦山ひこさん釈迦岳しゃかだけ大日岳だいにちだけ一帯の火山活動と風化浸食ふうかしんしょくによってできた安山岩質あんざんがんしつ集塊岩しゅうかいがんの林立した奇岩群きがんぐん窟群くつぐんが形成する山地です。植物相しょくぶつそうも周辺地域にない特殊であることから耶馬日田英彦山やばひたひこさん国定公園こくていこうえんに指定されています。権現岩ごんげんいわ熊野岩くまのいわかさいわ貝吹岩かいふきいわ烏帽子岩えぼしいわ見晴岩みはらしいわうま首根岩こうねいわが、その特異な形状から昭和35年(1960)8月16日、福岡県指定天然記念物に指定されています。

大公孫樹おおいちょう

岩屋神社いわやじんじゃ御神木ごしんぼくのひとつで、高さ約36m、幹回り約6mのイチョウの大木たいぼくです。樹齢600~700年とも言われ、大友宗麟おおともそうりんによる二度の宝珠山ほうしゅやまちにも耐えたとされています。伝承でんしょうでは役行者えんのぎょうじゃ岩屋いわやでの修行しゅぎょうを終えて、持っていたつえを地面に刺して芽生めばえたとされています。昭和35年(1960)8月16日、福岡県指定天然記念物に指定。江戸時代には、カエデ、マキ、ネズミモチなど7種の異なる植物がイチョウから生えていたことから七色木なないろぎとされていました。

玄海げんかいツツジ」

昭和36年(1961)10月20日に福岡県指定天然記念物に指定。朝鮮半島の金剛山くむがんさん、対馬とこの岩屋一帯いわやいったいにしかない珍しいものです。シャクナゲ科に属し、樹高1~2m程度の小灌木しょうかんぼくです。彼岸ひがんツツジとも呼ばれ、不思議なことに必ず彼岸ひがん中日ちゅうにちには、薄桃色の花が咲くと言われています。普通のツツジと違い、花が咲き終わった後に葉が出てきます。村花にも指定されています。

岩屋いわやのオオツバキ」

昭和51年(1976)4月24日に福岡県指定天然記念物に指定。昭和37年(1962)に一度指定されましたが、指定解除となり再度の指定でした。高さ18m、幹回り1.8mでこれだけ大きなものは珍しいとされています。

Photo・写真

  • 一之鳥居
  • 神輿堂
  • 岩屋坊
  • 二之鳥居
  • 参道
  • 御賽銭堂[遙拝所]
  • 大公孫樹
  • 天満宮
  • 中宮
  • 洞門の祠
  • 首無し地蔵(千体地蔵・五百羅漢)
  • 馬の首根岩の斜面
  • 本殿前境内
  • 本殿前境内
  • 本殿
  • 本殿
  • 本殿
  • 権現岩
  • 権現岩
  • 権現岩
  • 権現岩と本殿
  • 薬師堂
  • 針の耳
  • 大日社
  • 大日社
  • 大日社
  • 熊野神社
  • 熊野神社
  • 熊野神社
  • 不動尊像
  • 子安観音
  • 玄海ツツジ

情報

住所〒838-1701
朝倉郡あさくらぐん東峰村とうほうむら宝珠山岩屋ほうしゅやまいわや
創始そうし崇神天皇すじんてんのう2年(前96)、開基かいき継体天皇けいたいてんのう26年(532)
社格しゃかく 英彦山四十九窟ひこさんしじゅうきゅうくつ第三窟だいさんくつ 宝珠山ほうしゅやま
無格社むかくしゃ旧社格きゅうしゃかく
例祭れいさい4月第2土~日曜(春季大祭しゅんきたいさい)、10月19日(秋季大祭しゅうきたいさい:おくんち)
神事しんじ 薦替こもか神事しんじ閏年うるうどし10月19日))

地図・マップ