神亀3年(726)の創建と伝えられる大分八幡宮は、神功皇后の所縁の地で、筥崎宮の元宮とされています。御祭神は応神天皇(八幡大神)、神功皇后、玉依姫命です。
神功皇后は、三韓征伐から帰国した後、粕屋の宇美邑にて応神天皇を御出産遊ばされ、その翌年の春、粕屋と嘉穂の郡境にある大口嶺(大口嶺の乳呑坂)を越えて当地に至ります。神功皇后は、当地にて引率していた軍士を解隊し、それぞれの故郷に返します。その大分から大分と称されるようになったと伝えられています。
御祭神である応神天皇(八幡大神)の神霊は、欽明天皇32年(571)に豊前国宇佐郡に所在する馬城嶺(御許山)に出現したと伝えられ、神亀2年(725)に現在の宇佐神宮の鎮座地である小倉山社へ遷座します。その翌年の神亀3年(726)、御神託により豊前地方と穂波地方、太宰府を行き来する拠点であり、大分の由緒ある当地に鎮西第一といわれる壮麗な社殿、穂浪宮(大分宮)が造営されたのが大分八幡宮の創始とされています。
正和2年(1313)に編纂された「宇佐宮御託宣集」では『我宇佐宮より穂浪の大分宮は本宮也』と記され、延喜21年(921)には八幡大神の託宣として箱崎の松原への遷座の神託があり、3年後の延長元年(923)に遷御したことから筥崎宮の元宮とされています。その遷座の前からの御神体で、神功皇后が腰裳に挟んでいたとされる「くしみ玉」は、大分八幡宮にて奉斎されていたとされています。
『宇佐宮御託宣集』
延喜二十一年六月一日、筥崎神託す。
我が宇佐宮よりは、穂浪大分宮は我の本宮なり。去る二十日辰時を以て、来り着く。今日巳時を以て、爰に来る所なり。其の故は、香椎宮は我が母堂、住吉宮は我が親父なり。我が幼少の当初、志賀嶋を点住して、これに跡づく所なり。夷類を征伐せしむる後、吾出生の時、号を崇めらるべし。我が先の世に、三箇所に居住せしむべき由、所々に有りと雖も、先の世に天下国土を鎮護し始めし時に、戒定恵の筥を納め置く。埋むる所は、彼の父母両所の敷地の中間に、松一本を殖うる、巳に其の璽なり。適生土の上へ、彼の所に居住せしめんと欲ふなりてへり。
私に云く。大分宮は我が本宮とは、欽明天皇の御代、御示現の前、御霊行の時なり。
代々朝廷の御崇敬も篤く、神事祭礼の折には太宰府庄庁の官人が参詣して執り行われ、承平5年(935)の「天慶の乱」の際には、朱雀天皇の勅願により平将門、藤原純友らの追討祈願のため九州に宇佐八幡五所別宮(第二肥前千栗宮・第三肥後藤崎宮・第四薩摩新田宮・第五大隅正八幡宮)が造立されますが、大分八幡宮は、その第一とされました。
中世も朝廷からの崇敬厚く、焼亡を受けての治暦3年(1071)の再建では筥崎宮と同等の規模の本殿であった記録されています。応仁の乱以降、衰微しますが、天正5年(1577)に秋月種実によって再建。この再建の時、現社殿の後方、丘の頂上の嶽宮から現在地に遷座しました。しかし、秋月種実が日向へ移封されたことで神領を失い再び衰微。江戸期に入り、福岡藩の関与と共に鳥居などの寄進も相次ぎ、享保6年(1721)8月15日には途絶えていた放生会も復活。享保8年(1723)には流鏑馬、その翌年の享保9年(1724)には村人が石清水八幡宮で習得してきた獅子舞が奉納され、神事祭事が整えられることとなり、篤く崇敬されています。
一の鳥居
人や車ゆきかう道路を前にして立ち、
大分八幡宮の
境内と
外界とを分かつ
鳥居です。この
鳥居からは、
石畳が真っ直ぐに
神前へと延びています。
鳥居の表面は風化が進んで、
銘文などは確認できませんが、
寛永7年(1630)に
黒田長政の
家臣・
小河久太夫の家来であった
阿部忽兵衛が
建立したと、
諸書に伝えられています。
三の鳥居
一の
鳥居をくぐり、
石畳の上を歩み進んで、昭和3年(1928)に
建立された二の
鳥居を過ぎると、
元禄3年(1690)に
建立された三の
鳥居が前に立っています。
伊佐甚九郎が
寄進したものです。
額にある「
大分宮」の字は、著名な筑前の学者・
貝原益軒が、京都に
赴いた際に、
内大臣を務めた
花山院定誠に書いてもらったものです。
筑穂町指定有形文化財です。
放生池
総門の前に
聳える
大楠の前には
放生池が
澄んだ水を
湛えて広がっています。秋の
放生会では、この池に魚が放たれています。池の辺には「
放生池」と刻んだ
石柱が、池の中には「
殺生禁断」と刻んだ
石柱が建てられ、常とは異なる、聖なる池であることを知らせています。
総門
宝永4年(1707)、村中の人々が
願主となって
建立された
総門は、
切妻造り、
銅板葺、
朱塗の
八脚門。年代のみでなく、通常は寺院にある
仁王像が
安置されているところも、
神仏分離以前の形態をそのまま
遺しているもので貴重です。
仁王像も、
宝永4年(1707)の
造像とみられ、こちらも郡中の人々により
寄進されたものです。
仁王像は
筑穂町指定有形文化財です。
社殿
平成7年(1995)に
建立された現在の
社殿は、
祭典や
参拝の場となる千鳥破風
唐破風付の
拝殿、
幣帛を
奉るための
幣殿、そして
本殿からなっています。
本殿は中央に
応神天皇(
八幡大神)、左に
神功皇后、右に
玉依姫命を
祀っています。かつては、
天正5年(1577)に建てられた
本殿、
慶安3年(1650)に建てられた
拝殿がありましたが、老朽化のため、平成7年(1995)に、遠近多くの人々の力を集めて、新たに現在の
社殿が建てられました。
嶽宮
社殿の背後には小高い丘があります。石階段を辿り、丘を登り切った頂上には、平らに開けた場所があります。
天正5年(1577)に
秋月種実によって再建されるまで
大分八幡宮の
社殿は、ここに構えていたと伝えられています。
嶽宮あるいは
元宮と
称され、
礎石や石積みが地表にのぞき、
石塔のかけらや瓦が散在しています。中央の
石祠は、
寛保3年(1743)の
建立で
祠の
銘は、村長の
伊勢善元をはじめ
大分村中が
施主となったこと、
石工は
江見喜七であると記されています。また、
嶽宮の丘は、全国でも珍しい
皇室古墳埋蔵推定地「
仲哀天皇御陵」として考古学者の学問的期待をかけられている聖地でもあります。
大神宮
社殿向かって右手の
鳥居から石階段を上って丘の中腹に
鎮座するのが
天照大神を祀る
大神宮です。
宝永2年(1705)に
社人の
井上内蔵が
建立したもので、11月6日19時の
例祭日には、
祭典につづき、
嘉穂神楽が
奉納されています。
生目神社
平家の
侍大将であった
平景清は、
壇ノ浦の
合戦に敗れて
日向に流されました。
源氏の世を悲しんだ
景清は、自ら両目をくり抜き盲目となり生涯を閉じたと伝えられています。その死後、
景清の徳を称えた住民が
日向国の
生目神社に
合祀したとされています。
平景清の徳を称え、
御神詠の「かげ清く照らす
生目の水かがみ、末の世までもくもらざりけり」を三回唱えると
眼病平癒の
御神徳を得られるとされています。
御神木
神功皇后は、
三韓征伐から戻るときに三本の
樟を持ち帰り、
香椎宮・
宇美八幡宮・
大分八幡宮の三社にそれぞれ植えたと伝えられています。福岡県天然記念物指定を受けている
御神木の
樟は、その子孫とされています。大陸系の
樟で、推定樹齢が約700~800年、胴周り径が約9mです。
市杵島神社
放生池の畔には、宗像三女神の市杵島姫神を祀る
市杵島神社が
鎮座しています。市杵島姫神は仏教の
弁才天と習合したことから、
弁才天(
弁財天・
弁天)とも呼ばれています。
恵比寿社
一の
鳥居の向かって左手に
鎮座するのは
事代主を
祀る
恵比寿社です。
村主社
詳細不詳。江戸時代、村人が再興する際に中心となった方々を祀っているとの説もあります。
天満宮
学問の神の
菅原道真公を
祀っています。
悠久社
江戸時代のものである総数48点74枚の
絵馬が大切に保管されてあります。
応神天皇産湯の井戸
宇美で生まれた
応神天皇が
産湯を使われたと伝えられる井戸です。
鶯塚
飛地境内となっている
鶯塚はJR
筑前大分駅前にある高さ10m程の丘です。
神功皇后がここで兵を解散した場所と伝えられています。
例大祭(
放生会)の
御神幸祭の
御旅所となっています。
秋の例大祭(放生会)
放生会として知られる秋の例大祭は、9月の最終土曜日と日曜日に斎行されています。土曜日に、祭座と獅子舞。日曜日は、祭典、獅子舞、流鏑馬、餅まき、御神幸祭が執り行われています。
八幡大神と縁の深い放生会は、もともと仏教の教えに基づくもので、魚や鳥など生き物を放つ法会に由来します。八幡宮では、養老4年(720)に宇佐にて、八幡大神の託宣による放生が行われたのがその始まりとされています。大分八幡宮で放生会が始まったのがいつかは定かではありませんが、宇佐神宮の創建された神亀2年(725)の翌年の神亀3年(726)が創建であることから、当初から放生会は執り行われていたと考えられています。また、記録としては昌泰3年(900)に太政官符により官幣に預かった際に放生会が斎行されたと記されています。
応仁の乱以降の衰退により放生会は途絶えますが、享保6年(1721)8月15日に復活。享保8年(1723)には流鏑馬。その翌年の享保9年(1724)には村人が石清水八幡宮で習得してきた獅子舞が奉納され、享保15年(1730)には御神幸祭が再開され、神事祭事が整えられることとなりました。明治期の神仏分離の後しばらくは、仲秋祭と名を変えていましたが、現在は放生会に改められています。
日曜日の御神幸祭で神霊が御乗りになられる神輿は、享保9年(1724)3月に、庄屋の伊佐甚九郎直友、伊佐市郎治直伝、伊佐藤五郎によって寄進されたことが墨書されています。
獅子舞
享保年間(1716-1736)には、諸神事が整備され、復興を確かなものとするための組織もつくられてゆきました。そのような中、庄屋の伊佐善左衛門直信は、享保5年(1720)に15人の村人を2ヶ月上洛させて、京都の石清水八幡宮で獅子舞を習得させました。そして享保9年(1724)の秋の放生会において、ついにこの獅子舞が奉納されました。
かすかに憂いを含みながらも賑やかな、笛と太鼓と銅拍子の、囃子の調子の緩急に合わせ、二頭の獅子が一対となって舞い踊る様は絶妙です。石清水八幡宮ではすでに絶えていますが、大分八幡宮では今も、享保の昔と変わらず色鮮やかな獅子舞が、確かな足取りで伝えられています。
大分八幡宮の神前をはじめとして、ゆかりの地を舞い歩く獅子舞は、放生会の華となっています。古式をよく伝え、筑前地方の他の獅子舞に与えた影響も大きいことから、福岡県指定無形民俗文化財となっています。
江戸期の獅子頭は、頭に宝珠を戴いている赤い獅子頭が雄獅子で、角がある黒い獅子頭が雌獅子で、ともに肉厚で重厚なつくりをしています。