九州の神社

宮崎県・霧島岑神社(小林市)

御祭神

御祭神ごさいじん瓊々杵尊ににぎのみこと木花咲耶姫尊このはなさくやひめのみこと彦火々出見尊ひこほほでみのみこと豊玉姫尊とよたまひめのみこと鵜葺草葺不合尊うがやふきあえずのみこと玉依姫尊たまよりひめのみこと猿田彦尊さるたひこのみこと櫛磐窓尊くしいわまどのみこと豊磐窓尊とよいわまどのみこと雲龍うんりゅう御柱みはしら五帝龍神ごていりゅうじん罔象女神みつはのめのかみ)、雛森神社ひなもりじんじゃ御祭神ごさいじん

由緒

霧島岑神社きりしまみねじんじゃは、天孫てんそん瓊々杵尊ににぎのみこと主祭神しゅさいじんに「皇祖こうそ日向三代ひゅうがさんだい」と、その皇后きさき降臨時こうりんじ先導せんどうされた猿田彦大神さるたひこのおおかみ天孫てんそん随行ずいこうされた櫛磐間戸神くしいわまどのかみ豊磐間戸神とよいわまどのかみ雲龍うんりゅう御柱みはしら二柱ふたはしら雛守神社ひなもりじんじゃ御祭神ごさいじん六柱ろくはしらを合わせて十八柱じゅうはちはしら大神おおかみ等がまつっています。

創建そうけんは、文字のない時代であり定かではありませんが、霧島岑神社きりしまみねじんじゃ高千穂峰たかちほのみね火常峰ひのとこみね御鉢おはち旧名きゅうめい)の中間地点の窪地である「背門丘せとのお瀬多尾せとのお瀬戸尾せとのお)」に鎮座ちんざされていました。承和しょうわ4年(837)、日向国ひむかのくに諸県郡もろかたのこほり霧島岑神きりしまみねのかみは官社に預り、のち従五位上じゅうごいじょうさずけられると「続日本後紀しょくにほんこうき」に記されています。天安てんあん2年(858)従四位下じゅしいげじょせられると「日本三代実録さんだいじつろく」とあり、「延喜式えんぎしき神名帳しんめいちょう」には日向国ひむかのくに式内しきない四座よんざのひとつであると記されています。

『延喜式神名帳』延長5年(927)編纂

西海道神一百七座[大卅八座・小六十九座]。

…(略)…。日向國四座[並小]。兒湯郡二座[並小]。都農神社、都萬神社。宮崎郡一座[小]。江田神社。諸縣郡一座[小]。霧嶋神社。

天暦年間てんりゃくねんかん(947-957)には、天台宗てんだいしゅうの僧の性空上人しょうくうしょうにんが4年間霧島山きりしまやま入峰修行にゅうほうしゅぎょうし、高千穂峰たかちほのみねの周囲6ヶ所に鎮座ちんざする其々それぞれの神社のかたわらに寺院じいん別当寺べっとうじ)を建立こんりゅう霧島山きりしまやまを中心とした霧島六所権現きりしまろくしょごんげん霧島岑神社きりしまみねじんじゃ霧島東神社きりしまひがしじんじゃ霧島神宮きりしまじんぐう東霧島神社つまきりしまじんじゃ夷守神社ひなもりじんじゃ荒嶽神社あらたけじんじゃ)の一社として神仏習合しんぶつしゅうごう霧島修験きりしましゅげんの霊場として開山され、霧島修験道きりしましゅげんどう大寺だいじとして信仰しんこうされました。当社の鎮座地ちんざち瀬多尾せとのおといったので瀬多尾権現せとのおごんげんとも称し、別当寺べっとうじ瀬多尾寺せとのおじと称したと伝えられています。

霧島岑神社きりしまみねじんじゃ中央権現社ちゅうおうごんげんしゃ瀬多尾寺せとのおじ
東霧島神社つまきりしまじんじゃ東霧島権現社つまきりしまごんげんしゃ勅詔院ちょくしょういん
霧島東神社きりしまひがしじんじゃ東御在所之宮ひがしございしょのみや錫杖院しゃくじょういん
霧島西神社きりしまにしじんじゃ西御在所之宮にしございしょのみや華林院かりんいん) ※現在の霧島神宮きりしまじんぐう
夷守神社ひなもりじんじゃ夷守権現社ひなもりごんげんしゃ宝光院ほうこういん) ※現在は雛森神社ひなもりじんじゃとして霧島岑神社きりしまみねじんじゃ合祀ごうし
荒嶽神社あらたけじんじゃ荒武権現社あらたけごんげんしゃ不動明観寺ふどうみょうかんじ)※霧島山きりしまやま南門みなみもんにあたり、都城市みやこのじょうし吉之元町よしのもとちょう荒武神社あらたけじんじゃ

噴火により遷座せんざを繰り返しており、現在の社地しゃちは、明治7年(1874)に合祀ごうしした夷守神社ひなもりじんじゃ(夷守六所権現)の社地しゃちです。天永てんえい3年(1112)の韓国岳からくにだけ噴火、仁安にんなん二年(1167)の大幡山おおはたやま噴火では相次いで神殿しんでん焼失しょうしつしましたが、その都度つど、元の地に再建さいけんされます。文暦ぶんりゃく元年(1234)には至近しきん火常峰ひのとこみね御鉢おはち旧名きゅうめい)が噴火し、社殿しゃでん焼失しょうしつ。この高地に湧いていた「天の井あまのい」も涸れたため、霧島王子神社きりしまおうじじんじゃの辺に遷座せんざされ、その地を第二瀬戸尾だいにせとのおと称しました。その地に座すこと480余年鎮座ちんざしますが、享保きょうほう元年(1716)の新燃岳しんもえだけの噴火によって、社殿しゃでん宝物ほうもつ類は焼失しょうしつ御神体ごしんたい小林市こばやしし細野今坊ほそのいまぼう地区の今坊権現いまぼうごんげん奉遷ほうせん、次いで細野村ほそのむら岡原おかはら遷座せんざされましたが、第二瀬戸尾だいにせとのおの地は荒廃したため、享保きょうほう14年(1729)夷守岳ひなもりだけの中腹に社殿しゃでん再建さいけんし、明治初頭まで鎮座ちんざされました。その地は、未だ築地つきぢと称されています。

南北朝なんぼくちょうを境として、日向日向薩摩さつま大隅おおすみに勢力を伸ばした島津氏しまづしからもあつ崇敬すうけいされ、霧島山きりしまやま武神ぶじんとして、地主神じぬしがみとして信仰されるようになります。それと同時に、日向ひゅうが各地の武士・農民の間に霧島信仰きりしましんこうが広がり、日向ひゅうが各地に応永おうえい年間(1394-1425)頃には数多くの勧請かんじょうを見、その範囲は宮崎県北西部を除く、ほぼ日向ひゅうが一円に及んでいます。また、島津義弘しまづよしひろ飯野城いいのじょうにいた頃は、特に当社を敬仰けいぎょうして度々たびたび参詣さんけいし、島津義弘しまづよしひろ寄進状きしんじょうによると、神領しんりょうとして毎年俵物たわらもの100ずつ寄進きしんしていました。

天保てんぽう14年(1843)薩摩藩さつまはん編纂へんさんの「三国名勝図会さんごくめいしょうずえ」には「霧島大権現宮きりしまだいごんげんぐう」と六社の本宮ほんぐうであったことが記されており、明治5年(1872)には県社けんしゃ列格れっかく。翌明治6年(1873)細野村ほそのむら合祀ごうし遷座せんざの世論が起こり、夷守神社ひなもりじんじゃを先ず本社の岑神社みねじんじゃ合祀ごうしした上で、改めて現在地に霧島岑神社きりしまみねじんじゃ奉遷ほうせんして今日に至っています。時を同じくして、霧島西神社きりしまにしじんじゃ霧島神宮きりしまじんぐうとなりますが、今でも霧島岑神社きりしまみねじんじゃでは六社権現ろくしゃごんげん中心権現ちゅうしんごんげんとして本宮ほんぐう御神体ごしんたい奉斎ほうさいしています。

雲龍の御柱

流破風造ながれはふづくり本殿ほんでん前の雲龍うんりゅう御柱みはしらは、五帝龍神ごていりゅうじん(雨乞い)と罔象女神みつはのめのかみ(水)であり、この二柱ふたはしら守護まもられて奥座おくざ瓊々杵尊ににぎのみこと鎮座ちんざされています。社殿しゃでんの向かって右には、大山祇神おおやまつみのかみ磐長姫命いわながひめのみこと木花開耶姫命このはなさくやひめのみことまつ大山祇神社おおやまつみじんじゃ。左に豊受神社とようけじんじゃ鎮座ちんざしています。

境内社けいだいしゃとして、仁王様におうさまから表参道さんどう石畳いしだたみを進んで第二鳥居だいにとりいの向かって右に豊磐窓尊とよいわまどのみこと、左に櫛磐窓尊くしいわまどのみことまつ門社かどしゃ鎮座ちんざしています。その参道さんどうを進んで左手に、保食神うけもちのかみまつ馬頭神社ばとうじんじゃ大宣都比売神おおげつひめのかみまつ繭神社まゆじんじゃ鎮座ちんざしています。

Photo・写真

  • 一之鳥居
  • 石畳参道と仁王像
  • 石畳参道
  • 石畳参道から二之鳥居
  • 二之鳥居
  • 豊磐窓尊を祀る門社
  • 櫛磐窓尊を祀る門社
  • 社殿
  • 社殿
  • 社殿
  • 社殿
  • 社殿
  • 社殿
  • 拝殿から本殿前、五帝龍神(雨乞い)と罔象女神(水)の雲龍の御柱
  • 拝殿から本殿前、五帝龍神(雨乞い)と罔象女神(水)の雲龍の御柱
  • 拝殿から本殿前、五帝龍神(雨乞い)と罔象女神(水)の雲龍の御柱
  • 大山祇神社
  • 豊受神社
  • 保食神を祀まつる馬頭神社
  • 大宣都比売神を祀まつる繭神社

情報

住所〒886-0004
小林市こばやしし細野ほその4937
創始そうし不詳ふしょう
社格しゃかく県社けんしゃ [旧社格きゅうしゃかく]
例祭11月18日
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HP宮巡 [宮崎県神道青年会] / Wikipedia

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